Ga4oシネマズ

映画評論を全文書き起こししました。

【復習編】完結!町山智浩さんの『桐島、部活やめるってよ』の解説が素晴らしかったので書き起こしました。

f:id:ga4o:20140524230538j:plain

書き起こしてみました。

桐島、部活やめるってよ』いかがでしたでしょうか?桐島、最後まで出て来ませんでした。

屋上から飛び降りる男子生徒が出てきますけども、脚本には桐島とは書いてないんですね。桐島と分かる人は最後まで出て来ません。

 

これは先ほど言いましたですね、ナッシュビルというロバート・アルトマンが監督の映画も同じでしてね、ずっと大統領候補、共和党でも民主党でもない第3党から出てきた大統領候補がずっと街宣車で演説をし続けてですね、彼の応援演説会が行われるということで、そこでいろんな登場人物が、いろんなカントリー歌手とかマネージャーとかが最後に集合するという話なんですけども、それも大統領候補が出てこないんでね、最後まで。

ただ出てこない大統領候補を中心に話が回っていくという映画がナッシュビルでした。ナッシュビルの大統領候補っていうのは何を象徴しているのかって言うとアメリカの理想とかですね、そういったものを象徴しているんですね。

 

街宣車での演説っていうのは、アメリカの歴史とか理想についてですねすごく社会学的にですね評論した内容になっているんですよ。ところがナッシュビルっていう物語自体に出てくるカントリー歌手とかマネージャーっていうのはそういったアメリカのことを政治的には何も考えていないと。

ただ話の根底にあるのは、歴史と政治と人々なんだよっていうのを大統領候補がいないということで逆に表現するというやり方がナッシュビルでした。

 

桐島は、みんなの理想とする生き方の象徴

桐島、部活やめるってよ』も桐島がいないことで、逆にですね桐島とは何なのかと考えるという構造になっているんですね。で、この登場しない桐島っていう人は何なのかっていうことに関して、吉田監督はインタビューで天皇みたいな感じってインタビューで言ってるんですけども、天皇陛下って言うものはですね、日本っていう国の象徴であって中心であるわけですね。

でも、彼自身は何もしてはいけないんですね、憲法上はね、憲政上は。それに近いんですね。桐島っていう人は登場しないし、なにもしないんですけども、中心に存在するんですね。で、この場合何の象徴かというと、高校生活、高校とか青春のみんなの理想とする生き方の象徴として存在するんですね。

 

つまりですね、桐島っていうスポーツ万能でもって、みんなから好かれて、女の子からもモテテ、かっこよくて、勉強もできてっていうですねスパーヒーローとしての高校生、高校生のあるべき姿っていうか、高校生が理想して夢見るものが桐島っていう象徴なんですね、高校とか青春の。それを中心にみんな生きているんですけども、高校生活を。

 

それが突然いなくなってしまうと。

で、これを吉田監督が言うように天皇に置き換えるとどうなるかって言うと、突然天皇が存在しなくなって、日本人がパニックに陥るというのに近いですね。中心となるものがなくなったんで、高校生たちがパニックに陥るという話が、今回の桐島なんですけども、ただ天皇というようなことを言っているようにですね、これは高校生活についてだけの話じゃないんですね。

で、原作の方は青春時代の高校生活そのものを非常にビビットに切り取ったものとして書かれてはいるんですけども、吉田監督はこれを高校生活を通してもっと大きなものを描こうとして、もっと普遍的なもの、サラリーマンであるとか、会社の営業マンで、すごくバリバリと頑張ってて、みんなその人を目標にしている人が、突然行方不明になってしまったと、会社を辞めてしまったと、それでみんなが目標を失ったり基準となるものを失って、中心となるものを失って、考え方の基盤とか基準になるものを失った時にどうなるのかという話として読み替えることもできる、そういう風に作り変えることもできるのが、この映画なんですね。

 

f:id:ga4o:20140524230711j:plain

こういった典型的な作品の例としては、刑務所を舞台にした映画で、ショーシャンクの空というですね映画があったんですけども、じゃあ刑務所に入ってない人は何の関係もないのかっていうとそうじゃないと、刑務所って言うものを世の中とか、人生とか色んな物に置き換えて見たほうがいいんですね。

 

つまり我々っていうのは刑務所にいるようなものじゃないかと、完全に自由じゃないと、やらなければならないこととかいろんなしがらみの中で生きているじゃないかと。

その中でどうやって自分って言うものを見出して行くのかと。そういう風に読み替えてみるべきなんですね。

 

人生の意味を見失った宏樹

ショーシャンクの空の中では主人公はですね、独房の中に穴を掘ってそこから脱出するわけですけども、じゃあそれを実際の人生の中でどうやったらいいのかと、自分自身の穴を掘るっていうことは普通の人、刑務所に入っていない人にとって一体何なのかを考えるように作られてるわけですね。

 

それと同じように考えてみるとですね、高校の生活の象徴であり、中心であり、目標であった桐島がいなくなることでパニックに全員陥るんですけども、もっともパニックに陥るのは、宏樹くんなんですね。

 

彼はすでに高校生活に意味を見いだせなくなってきていると。高校生活だけじゃなくって自分の人生にも意味が見えなくなって、なんのために生きるのかがよくわからなくなってるんですね。最初に進路の志望の書類を渡されるところから始まるように、彼自身が人生の目的、意味を見失っているというところから始まっていきます。

 

実存の始まり

f:id:ga4o:20140524230814j:plain

野球とかできるんですけど、じゃあ上手く野球をやってたとして自分にとって何なのか、よくわからなくなっている。で、彼女もいますけども、彼女との恋愛も楽しくないんですね。まあヤな女だからっていう問題もありますけども。笑 沙凪っていう女が、ほんとむかつく女なんですけども、あれは演技が上手いだけですけど。

 

他に友弘っていう童貞の男が出てきて、セックスできたらいいなーとか言ってるんですね。

彼は童貞だから、セックスとか恋愛とかにすごく幻想を抱いてるんですけども、宏樹は恋愛とかセックスとかやってみたけどもあんまり面白くなかったよって感じなんですね。

つまんなそーにキスするシーンがいいですね。ほんとになんだかつまんねーなって感じがよく現れているわけですけども。

友弘のいうセリフは、ともひろって自分で変な感じがしますけど笑、すごく意味があってですね、あーセックスできたらいいな、それが出来たら最高だよっていうんですけども、つまり彼はそれが達成されていないから、まだ実現していないから、そこに人生の意味みたいなものを見出そうとしているんですね。それが最高の人生の意味なんだと。恋愛とかセックスとかが1番意味があることなんだと言う風に思っているんですけども、

 

宏樹にしてみれば、もうそれも意味が無いことに気づいてるんですよ。勉強についてもそうで、彼は勉強もできるらしいんですね、はっきりと出てこないですけど。原作にはもちろんはっきり書いてありますけども。勉強していい大学に行って、いい会社に入って、給料沢山もらって、お金をもらって、いい嫁さんもらって、一体それが何なのかと、それ自体に意味がわからなくなってしまっているわけですよ。そんなことして一体なんになるんだという感じになってきているのが宏樹くんで、この宏樹くんていうのは実は、先程も言いましたけども、実存主義って言葉をしらないで、実は実存主義の入り口に立ち、もう向かっている状態なんですね。

 

人間の生きる意味とは、世の中の意味とは一体何なのかと、もう意味は無いんじゃないかという状況に入ってきているという話しなんですね、今回は。だからなんでもできる人だから俺達には関係ないってことではなくて、実は全てのことに意味は無いんだよということをはっきりとさせるために、宏樹を主人公にしているだけなんですね。

 

f:id:ga4o:20140524230840j:plain

この話っていうのは、実は実存主義の教科書的な本がありましてですね、サルトルの嘔吐という小説があります。1938年に書かれたものですけども、それに宏樹くんは非常に似ているんですね。

 

嘔吐という小説はですね、1人の哲学者がある日突然吐き気を催すんですね。それはどうしてかって言うと、自分が生きている意味がわからなくなってしまうんですね。人間っていうのは特別な存在であると思っていたら、別に特別な存在ではなくて、そこにある石ころと同じで全く意味が無いんだということに気がついたんですね。

存在すること自体に意味が無いと気がついたんですね。で、気持ち悪くなってきたと、吐き気がしてきたという話が嘔吐という話です。

 

ではどうしてそういう話が書かれたかっていうと、人間は生まれてくるということに意味があると思っていたんですね、特にヨーロッパの人たち、キリスト教圏の人たち、アラブのイスラム教とかの人たちとか、イスラエルとかのユダヤ教の人たちはみな、神様に人間は作られたと思っていましたから。

 

つまり、神様は人間を自分に似せて作ったという風に書いたんですね、聖書に。

ってことは、人間は神様が何かをするための目的によって作られたものである、意味のある存在だと思ってたわけですよ。例えば今椅子に座っています。椅子っていうのは人が座るために作られているじゃないですか。それと同じように人間も、何か神様の目的のために作られているんだとずっと信じていたんですね、何千年も。

 

ところがですね近代っていう時代に入ってですね、科学とか論理というものがあたり前になってきた時に、聖書とか宗教とかって言うものはどうも人間が作った話しらしい、つくり話らしいということがわかってきて、神様とはどうもいないらしいということになってきたんですね。

 

ましてや人間を作ったということはありえないと、進化論的にもね。そうなるとどうなるかというと、じゃあ人間っていうのはそのへんの石ころとかと同じで、意味が無いんじゃないのと、たまたまいるだけなんじゃないのということになってくるんですよ。

 

つまり、人間の意味って、本質とも言いますけど、人間には本質があるとずっと思ってきたんですね。それはギリシャ神話のギリシャ哲学の頃からずっと信じられてきたんですよ。キリスト教の前から人間には本質があると。

それを実現することが生きる意味なんだと、世の中の意味なんだと、世の中には本質があると、世の中には神様の目的があって世の中が作られてるんだ、世界が作られているんだと思っていたら、そうじゃないと、そんなものなにもないんだという事実に、近代っていうのは気がついてしまったんですね、人々は。

 

じゃあ俺たちどうやって生きたらいいか、世の中何の意味もないんだったらどうすりゃいいのか。これが宏樹的状態ってわけです。実存主義っていうものの始まりなんですね。

 

f:id:ga4o:20140524230910j:plain

それでですね、ずっとナッシュビルとか、桐島を待っててこないとか、ナッシュビルで大統領候補を待っててこないっていうのは、『ゴドーを待ちながら』という戯曲があるんですね、お芝居がね。で、これはベケットという人が1950年台に書いたものですけども、これはゴドーっていう人を待っている二人の男が出てきてですね、ずーっと待っているんですよお芝居の中で、で違う人が出てきたりするんですけど、結局目的としているゴドーっていう人は来ないんですね。で、来ないまま終わっちゃうんですけども、そのお芝居は。

で、一体これは何を意味しているかというと、一般的な解釈としては、ゴドーはゴッドなんだと言われているんですね。つまり人間っていうのは、みんな来もしない、来るわけがない神っていうのを待ち続けて生きていると、それ自体絶対に来ないかもしれない神様を待っているということが、人間が生きているっていう状況なんだということを言っているんですね。

 

じゃあどうするかって言うことはそこから自分で考えるわけですけども。それがゴドーを待ちながらという戯曲で、桐島っていうのはそのゴドーにあたる、来るわけもない、絶対最後まで現れない、世界の中心、世界の意味、世界に意味を与えているものなんだということなんです。

 

人生に何の意味があるのかを考えさせる映画

1番の問題はですね、人間は何故神っていうことを考えるようになったかというとですね、どうせ死んでしまうからですね。死んでしまって完全に無になってしまうんだと、何も残らないし、

何もその後に残らないんだと思ったら、人間っていうのはなんのために生きているかわからなくなってしまうんですね。

死で全て終わってしまうんだったら、どうして生きていったらいいかわからない。目的がわからなくなるんですよ。そこで神とかそういったものを創造したわけですけども、人間は目的を与えるために。人生とか生きることとかこの世の意味に。

 

ところが、その部分が否定されてしまった時にどうなるか。

これはね、実果ちゃんっていう女の子が、この『桐島』の中で言ってるんですけども、「どうせ私たちは負けてしまうのに、負けるってわかっているのに何で頑張っているのかしら。」っていうセリフが出てきますけども、あれはまさに人生そのものですね。どうせどんなに頑張ったって、どんなに金持ちになったって、どうせ死ぬんですよね。

 

で、何もかも消えてなくなるんだったら、何のために生きてるんだろうってことにも聞こえてきてしまうんですね。宏樹くんっていうのはそこまで、おそらくは考えてしまっているか、考えることを象徴しているんですね。

 

つまり、金持ちになって、大金持ちになって、すごく最高な暮らしをして、じゃあそれに何の意味があるのか、どうせ死んじゃうじゃないか、ってとこまで考えさせる映画なんですね。

この学校っていうのはヒエラルキーがあって、ピラミッド型のカースト制度があって、こう制度があるわけですね、一種のシステムが。社会と同じように、社会にも実際にシステムがあるわけですよ、貧しいとか、貧しくないとか、幸せとか、幸せじゃないっていう形で。

 

でもそれにどうして意味があるの?どうせ死んじゃうじゃん。

で、そのシステム自体も作り物じゃないか、それ自体にも意味が無いよと、いうところまで行ってしまいますよね。この意味ないんじゃないかっていう考え方っていうのは、ニヒリズムといいますよね。なんにも意味ないっていう考え方ですよね。

 

で、この中で全然気が付かないのはパーマですよね。このパーマは全然気が付かないですよね。そのシステムの中でパッパラパーで生きているわけですよね。友弘っていうのも気がついていないわけですよね。友弘は馬鹿ですからね、童貞でね。

 

ところがその中でですね、宏樹は気付いてしまったと、そのシステムって言うものは虚構なんだと、フィクションなんだ、幻想なんだっていうことに気がついてしまったんですね。

 

全くブレない3人

すべての人が不安になる、土台となっている桐島がいなくなったことでね。ところがこの中で全くブレない人達がいるんですね。桐島がいなくなっても関係ないっていう人が3人出てきます。ここがポイントですね。野球部のキャプテンですね、1人は。野球部のキャプテンはこう言いますよね。何でいつまでも引退しないのって聞かれて、「いや、ドラフトが来るまではね。ドラフトが来るまでは頑張るよ。」この時劇場の中では笑い声が起きたらしいんですけど、来るわけねえだろ、馬鹿じゃねのって。でもそこは笑うとこじゃないって監督が言ってますね。

 

つまりこのキャプテンっていうのは、来るわけもないドラフトっていうのを待ち続けて、それのために生きているんですね。これは神を信じている人ですね、いわばね。来るわけもない神様を信じている人ですね。彼は信仰者ですね、一種のね。キャプテンは信仰者を象徴してるんですよ。絶対に来ないものを、来るわけのないものを待って、それで生きていける人ですね。キャプテンは信仰者です。

 

ぶれないのがキャプテンの他に2人いましてですね、1人が吹奏楽部の亜矢ちゃんていう女の子ですね。で、もう1人は映画部の前田くんなわけですよ。

この二人何故ブレないか、これは非常にわかりやすいですね。

彼らはやりたいものが見つかっているからですよ。何をやりたいかがわかっているからですよ。宏樹はやりたいことを見失った人なんですよ。やりたいことが見つかっている人は別にブレないんですよね。社会のシステム、高校ではこのカースト制度とかね、金儲けであるとか、出世であるとか、学歴であるとか、そういったものは関係ないんですよね、好きなものを見つかっている人には、やるべきことがわかっている人には。別にそんなフィクションとか関係ないんですね、システムとか嘘っぱちなことは関係ないんですね。これものすごいわかりやすいですね。

 

失恋を芸術に昇華させる二人

で、この二人、亜矢ちゃんと前田くんはふたりとも失恋しますね。ところがその失恋した想いっていうものをそれぞれの打ち込んでいる芸術に昇華させていきますよね。

 

亜矢ちゃんはローエングリンっていう曲を吹奏楽部で吹くんですけども、あれは結婚式のテーマなんですね。そこも非常に象徴的ですけども。で、それが会心の出来で、失恋することによって彼女はですね、悲しい気持ちとかそういったものをですね、芸術に昇華させたんですね。

 

前田くんも全く一緒で、かすみちゃんにフラれっていうか、まあフラれるってなにも前田くんも亜矢ちゃんも二人とも告白もしていないんですけども、勝手に失恋するんですが、その気持ちをですね前田くんはゾンビ映画の中で、自己実現していくという形ですね。

 

f:id:ga4o:20140524231125j:plain

で、かすみちゃんへの想いをかすみちゃんを食い殺すというシーンに昇華させるんですけども、これはその前に彼が観ていた映画で『鉄男』、塚本晋也監督の『鉄男』っていう映画の中で、ドリルを付けた男がですね女の子をそれで殺すっていうシーンが、最初に出てきますけども、それとつながってくるんですね。かすみちゃんを食い殺すっていうシーンは。

 

コンプレックスとかそういったものを芸術になるということはこういうことなんだと非常にわかりやすく描かれてますよね。

 

大逆転の瞬間

そこでですね宏樹くん、生きる意味を失ってしまった宏樹くんと、前田くんが屋上で出会うんですけども、宏樹がですね、カメラを触らせてくれないかと言うんですね。で、どうしてかっていうと、つまり俺は生きる意味がわからなくって辛いのに、なんで前田っていう男はカメラを持って楽しそうにしてるんだろうと、このカメラに特別な力があるんじゃないかっていう感じで、不思議そうにカメラを触るんですね。あれが面白いんですね。ここに魔法があるんじゃないかと思うんですね、宏樹くんは生きる意味の。

 

で、そこでカメラでもって、持ってですね前田くんにインタビューをするんですね。あのインタビューはふざけているようで、本当のことを聞いていますね。つまり何で映画とってるの?映画監督になりたいの?女優と結婚したいの?アカデミー賞が欲しいの?って聞きますよね。あれは何を聞いてるのかというと、結果はどうなの?と、君たちが求めている結果は?目的は?目標は?意味は?って聞いてるんですね、前田くんに。

 

そしたら前田くんは照れながらですね、いやー、映画撮っていると、好きな映画とつながっているような気がして、としか答えないんですね。あれは、意味とか、結果とか、目標とか考えたことなくて、俺好きでやってるんだけど。って言ってるんですね。

 

その後ですね、前田くんの持ったカメラのフレームの中でですね、宏樹くんがものすごく悲しそうな顔をするんですね、夕日に照らされた宏樹くんの顔が悲しそうになるんですね。このシーンについて吉田監督ははっきりとこう言ってます、あれは大逆転の瞬間だと。あれは大逆転なんだと。どういうことかって言うと、宏樹くんは全てにおいて完璧で勝利者だったんですね。なんでも出来た。ただたった一つ持っていなかった。それは意味だったんですね、目的だったんですね。で、それで前田くんはですね、意味とか関係ないし、やりたいことがあるからやってるんだしと答える所で、前田は勝ったんですね。

全てを持っている宏樹に前田は勝ったんですよ。勝った瞬間ですね、あれね。好きなことやってるやつは勝ちなんですよ。それで上手くいかなくたって別にいいんだもん、好きなことやってるんだから。それで上手くいきゃないけど、なんか結果がなきゃ、なんか意味がなきゃと思っているから、勝ち負けって言うことがそこに出てくるんですね。

 

でももう好きなことやってるんだから、その段階で勝ってるわけですよ、前田は。だから宏樹くんは泣きそうになるんですよ。「かっこいいね」って言われて、あの時宏樹くんがはっきりと言葉で返すんだったら、「俺なんかかっこよくないよ。ほんとにかっこいいのは前田、お前だよ」っていうことでしょうね。「だって、お前やりたいこと好きにやってんじゃん、お前の勝ちだよ!」ってことだと思いますよ。

 

お前のほうがかっこいいよ!と、で、その後宏樹くんは学校を出てですね、まだしつこく桐島に電話をしようとしますね、携帯で。桐島から電話がかかってくるんですね。あれは神からのお呼びみたいなシーンですけども。その電話を取らないで、話さないでですね、携帯の蓋を閉じるんですね。なぜかって言うと、彼の目には一生懸命野球をやっている仲間が見えるんですね。桐島っていうのは意味の誘惑ですよ。

 

桐島っていうのは、どうやって生きていくの?意味あんの?目標は?みたいなね中心にあるもの、基軸みたいなもの、そういったものですよね。それに蓋を閉じちゃったんですね、最後宏樹くんは。

 

あのあと、本当に野球をやるのかどうかはわからないまま映画は終わってますけども、そっから先はみんながそれぞれ考えるということですね。

 

全ての物語っていうのは自分自身にたどり着くまでの話なんです

たださっき好きなことやってればいいっていう話をしたんだけども、先ほど言ったサルトルの『嘔吐』のラストっていうのはですね、実はすごく人間には意味が無いんだってことを悩んで、悩んで、悩んで、辛くなって、もうどこに行ったらいいかわからなくなってしまった主人公が最後に見出すのは、物を書くことなんですね。物を書いてみんなに読ませると、自分の考えを書いて読ませたいと思うんですね。そういう時に初めて、良かった、俺は生きていこう!と主人公は思うんですね。

 

これは全く、桐島の中に出てくる吹奏楽部の亜矢ちゃんと映画部の前田くんと同じ結論ですね。意味とかいいよ、とりあえず俺はやるべきことをやると、何か形にしてみんなに伝えると、自分というものを残すと、つまりこれは何かって言うと、自己を実現するってことですね。

 

自分の中にある自分自身を実現する、自分自身になるってことですね。芸術っていうのは自己実現っていうのはそういった意味だったんですね。それで、『ショーシャンクの空に』で、主人公が自分の独房に穴を掘っていって、向こう側に突き抜けるっていう話もそういう話なんですね。

 

つまり自分自身の中にある自分自身の一番深いところ、自分自身の本当にやりたい本質的なもの、本質っていうのはないんですから、好きな事がないってことなんですね、逆にいうとね。さらに、意味のない牢獄のような人生から突き抜けて、向こう側に行けるんじゃないかと、向こう側っていうのは、自分自身にたどり着くってことですね。

 

実は全ての物語っていうのは自分自身にたどり着くまでの話なんですね、哲学にしても、小説にしても、全ての物語は自分自身に帰ってくる、自分自身が見えなくなっちゃった、自分自身が見えない、自分自身に帰れっていう話なんですね、それを探すんだという話になっているんだと。

 

で、この桐島っていうのは、青春の物語にして、それを非常にリアルに、作り物っぽくなくですね、非常に残酷なまでにリアルに描きながら、ただ徹底的にリアルに描くと、現実ですからやっぱり普遍的な学校生活を超えた人生みたいなものに突き抜けていくんだということがよく分かるかと思います。

ラストシーンの野球に行くかどうかに関してもナレーションを入れてませんね、ちゃちな映画だと宏樹くんの気持ちを入れちゃうわけですよ、そこに。絶対ナレーション入れたでしょう。俺は前田みたいに打ち込めるものあるんだろうかみたいなね、おれにとっては野球なんだろうかとかね、そういうこと入れたかもしれないですね。

 

桐島は俺にとって何だったんだとか、そういうナレーション入れたかもしれません。でもそれをやってませんね。これはすごいと思いますよ。っていうのは、この原作小説っていうのは、逆に登場人物たちの独白、心の声だけで出来ているんです。それを今回映画化した時に、心の声を一切聞かせないと。これ逆のことやっているんですよ、原作と。これはほんとすごいことだと思いますよ。

 

前田勝ち!映画秘宝勝ち!

この映画でいろいろ悲しいシーンがあったんですけど、一番悲しいのは、普通の人たちは、前田くんが教室に戻ったら、かすみちゃんがパーマ野郎といちゃいちゃしているところを目撃してしまうというシーンが1番悲しいという人が多いと思いますけど、僕が悲しかったのは、ゾンビ映画を撮っているという話をした時にですね、吹奏楽部の女の子の亜矢ちゃんがですね、「それ、遊びですか?」って言うんですね。「いや、そうじゃないんだけど」って前田くんは言うんですけど、どう聞いても遊びにしか聞こえないよと、これはねえ、僕は人生の中で何度も言われました。

 

僕がゾンビ映画の話をしたり、ゾンビ映画を観たりですね、そういう雑誌を作ったりしてる中でですね、いろんな人に、「楽しそうにやってていいね」って、「遊んでんの?」とかね、いろんな人っていうかね、いろんなかみさんといかですね、娘とかですね、妹とかいろんな人に「怪獣とか、ブルース・リーとか楽しそうでいいね、遊んでんの?、いいね」って言われましたね、同級生とかね。「遊んでんの?」って、「遊んでるんじゃないんだけど、仕事なんだよ!」っていうふうにも言い切れないしっていう、非常に難しいところがあるわけですけども。そこで前田くんがはっきりと反論できないところが、まるで自分をみているようでしたけども。

 

でもね、遊びと仕事が一緒になってるんだから、一番いいんじゃないかっていう気もしますよ。これは最高なんじゃないかってね、これ勝ってねえかっていう気がするわけです。前田勝ち!映画秘宝勝ち!っていう気が非常にして。ただ映画秘宝を落とすやつが、ともひろっていうやつなんですね!

ともひろ、どうしようもないですね、童貞で、映画秘宝たたき落として!ともひろ、いいかげんにしなさい!笑

ってことで、『桐島、部活やめるってよ』でした。