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映画評論を全文書き起こししました。

【復習編】完結!町山智浩さんの『桐島、部活やめるってよ』の解説が素晴らしかったので書き起こしました。

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書き起こしてみました。

桐島、部活やめるってよ』いかがでしたでしょうか?桐島、最後まで出て来ませんでした。

屋上から飛び降りる男子生徒が出てきますけども、脚本には桐島とは書いてないんですね。桐島と分かる人は最後まで出て来ません。

 

これは先ほど言いましたですね、ナッシュビルというロバート・アルトマンが監督の映画も同じでしてね、ずっと大統領候補、共和党でも民主党でもない第3党から出てきた大統領候補がずっと街宣車で演説をし続けてですね、彼の応援演説会が行われるということで、そこでいろんな登場人物が、いろんなカントリー歌手とかマネージャーとかが最後に集合するという話なんですけども、それも大統領候補が出てこないんでね、最後まで。

ただ出てこない大統領候補を中心に話が回っていくという映画がナッシュビルでした。ナッシュビルの大統領候補っていうのは何を象徴しているのかって言うとアメリカの理想とかですね、そういったものを象徴しているんですね。

 

街宣車での演説っていうのは、アメリカの歴史とか理想についてですねすごく社会学的にですね評論した内容になっているんですよ。ところがナッシュビルっていう物語自体に出てくるカントリー歌手とかマネージャーっていうのはそういったアメリカのことを政治的には何も考えていないと。

ただ話の根底にあるのは、歴史と政治と人々なんだよっていうのを大統領候補がいないということで逆に表現するというやり方がナッシュビルでした。

 

桐島は、みんなの理想とする生き方の象徴

桐島、部活やめるってよ』も桐島がいないことで、逆にですね桐島とは何なのかと考えるという構造になっているんですね。で、この登場しない桐島っていう人は何なのかっていうことに関して、吉田監督はインタビューで天皇みたいな感じってインタビューで言ってるんですけども、天皇陛下って言うものはですね、日本っていう国の象徴であって中心であるわけですね。

でも、彼自身は何もしてはいけないんですね、憲法上はね、憲政上は。それに近いんですね。桐島っていう人は登場しないし、なにもしないんですけども、中心に存在するんですね。で、この場合何の象徴かというと、高校生活、高校とか青春のみんなの理想とする生き方の象徴として存在するんですね。

 

つまりですね、桐島っていうスポーツ万能でもって、みんなから好かれて、女の子からもモテテ、かっこよくて、勉強もできてっていうですねスパーヒーローとしての高校生、高校生のあるべき姿っていうか、高校生が理想して夢見るものが桐島っていう象徴なんですね、高校とか青春の。それを中心にみんな生きているんですけども、高校生活を。

 

それが突然いなくなってしまうと。

で、これを吉田監督が言うように天皇に置き換えるとどうなるかって言うと、突然天皇が存在しなくなって、日本人がパニックに陥るというのに近いですね。中心となるものがなくなったんで、高校生たちがパニックに陥るという話が、今回の桐島なんですけども、ただ天皇というようなことを言っているようにですね、これは高校生活についてだけの話じゃないんですね。

で、原作の方は青春時代の高校生活そのものを非常にビビットに切り取ったものとして書かれてはいるんですけども、吉田監督はこれを高校生活を通してもっと大きなものを描こうとして、もっと普遍的なもの、サラリーマンであるとか、会社の営業マンで、すごくバリバリと頑張ってて、みんなその人を目標にしている人が、突然行方不明になってしまったと、会社を辞めてしまったと、それでみんなが目標を失ったり基準となるものを失って、中心となるものを失って、考え方の基盤とか基準になるものを失った時にどうなるのかという話として読み替えることもできる、そういう風に作り変えることもできるのが、この映画なんですね。

 

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こういった典型的な作品の例としては、刑務所を舞台にした映画で、ショーシャンクの空というですね映画があったんですけども、じゃあ刑務所に入ってない人は何の関係もないのかっていうとそうじゃないと、刑務所って言うものを世の中とか、人生とか色んな物に置き換えて見たほうがいいんですね。

 

つまり我々っていうのは刑務所にいるようなものじゃないかと、完全に自由じゃないと、やらなければならないこととかいろんなしがらみの中で生きているじゃないかと。

その中でどうやって自分って言うものを見出して行くのかと。そういう風に読み替えてみるべきなんですね。

 

人生の意味を見失った宏樹

ショーシャンクの空の中では主人公はですね、独房の中に穴を掘ってそこから脱出するわけですけども、じゃあそれを実際の人生の中でどうやったらいいのかと、自分自身の穴を掘るっていうことは普通の人、刑務所に入っていない人にとって一体何なのかを考えるように作られてるわけですね。

 

それと同じように考えてみるとですね、高校の生活の象徴であり、中心であり、目標であった桐島がいなくなることでパニックに全員陥るんですけども、もっともパニックに陥るのは、宏樹くんなんですね。

 

彼はすでに高校生活に意味を見いだせなくなってきていると。高校生活だけじゃなくって自分の人生にも意味が見えなくなって、なんのために生きるのかがよくわからなくなってるんですね。最初に進路の志望の書類を渡されるところから始まるように、彼自身が人生の目的、意味を見失っているというところから始まっていきます。

 

実存の始まり

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野球とかできるんですけど、じゃあ上手く野球をやってたとして自分にとって何なのか、よくわからなくなっている。で、彼女もいますけども、彼女との恋愛も楽しくないんですね。まあヤな女だからっていう問題もありますけども。笑 沙凪っていう女が、ほんとむかつく女なんですけども、あれは演技が上手いだけですけど。

 

他に友弘っていう童貞の男が出てきて、セックスできたらいいなーとか言ってるんですね。

彼は童貞だから、セックスとか恋愛とかにすごく幻想を抱いてるんですけども、宏樹は恋愛とかセックスとかやってみたけどもあんまり面白くなかったよって感じなんですね。

つまんなそーにキスするシーンがいいですね。ほんとになんだかつまんねーなって感じがよく現れているわけですけども。

友弘のいうセリフは、ともひろって自分で変な感じがしますけど笑、すごく意味があってですね、あーセックスできたらいいな、それが出来たら最高だよっていうんですけども、つまり彼はそれが達成されていないから、まだ実現していないから、そこに人生の意味みたいなものを見出そうとしているんですね。それが最高の人生の意味なんだと。恋愛とかセックスとかが1番意味があることなんだと言う風に思っているんですけども、

 

宏樹にしてみれば、もうそれも意味が無いことに気づいてるんですよ。勉強についてもそうで、彼は勉強もできるらしいんですね、はっきりと出てこないですけど。原作にはもちろんはっきり書いてありますけども。勉強していい大学に行って、いい会社に入って、給料沢山もらって、お金をもらって、いい嫁さんもらって、一体それが何なのかと、それ自体に意味がわからなくなってしまっているわけですよ。そんなことして一体なんになるんだという感じになってきているのが宏樹くんで、この宏樹くんていうのは実は、先程も言いましたけども、実存主義って言葉をしらないで、実は実存主義の入り口に立ち、もう向かっている状態なんですね。

 

人間の生きる意味とは、世の中の意味とは一体何なのかと、もう意味は無いんじゃないかという状況に入ってきているという話しなんですね、今回は。だからなんでもできる人だから俺達には関係ないってことではなくて、実は全てのことに意味は無いんだよということをはっきりとさせるために、宏樹を主人公にしているだけなんですね。

 

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この話っていうのは、実は実存主義の教科書的な本がありましてですね、サルトルの嘔吐という小説があります。1938年に書かれたものですけども、それに宏樹くんは非常に似ているんですね。

 

嘔吐という小説はですね、1人の哲学者がある日突然吐き気を催すんですね。それはどうしてかって言うと、自分が生きている意味がわからなくなってしまうんですね。人間っていうのは特別な存在であると思っていたら、別に特別な存在ではなくて、そこにある石ころと同じで全く意味が無いんだということに気がついたんですね。

存在すること自体に意味が無いと気がついたんですね。で、気持ち悪くなってきたと、吐き気がしてきたという話が嘔吐という話です。

 

ではどうしてそういう話が書かれたかっていうと、人間は生まれてくるということに意味があると思っていたんですね、特にヨーロッパの人たち、キリスト教圏の人たち、アラブのイスラム教とかの人たちとか、イスラエルとかのユダヤ教の人たちはみな、神様に人間は作られたと思っていましたから。

 

つまり、神様は人間を自分に似せて作ったという風に書いたんですね、聖書に。

ってことは、人間は神様が何かをするための目的によって作られたものである、意味のある存在だと思ってたわけですよ。例えば今椅子に座っています。椅子っていうのは人が座るために作られているじゃないですか。それと同じように人間も、何か神様の目的のために作られているんだとずっと信じていたんですね、何千年も。

 

ところがですね近代っていう時代に入ってですね、科学とか論理というものがあたり前になってきた時に、聖書とか宗教とかって言うものはどうも人間が作った話しらしい、つくり話らしいということがわかってきて、神様とはどうもいないらしいということになってきたんですね。

 

ましてや人間を作ったということはありえないと、進化論的にもね。そうなるとどうなるかというと、じゃあ人間っていうのはそのへんの石ころとかと同じで、意味が無いんじゃないのと、たまたまいるだけなんじゃないのということになってくるんですよ。

 

つまり、人間の意味って、本質とも言いますけど、人間には本質があるとずっと思ってきたんですね。それはギリシャ神話のギリシャ哲学の頃からずっと信じられてきたんですよ。キリスト教の前から人間には本質があると。

それを実現することが生きる意味なんだと、世の中の意味なんだと、世の中には本質があると、世の中には神様の目的があって世の中が作られてるんだ、世界が作られているんだと思っていたら、そうじゃないと、そんなものなにもないんだという事実に、近代っていうのは気がついてしまったんですね、人々は。

 

じゃあ俺たちどうやって生きたらいいか、世の中何の意味もないんだったらどうすりゃいいのか。これが宏樹的状態ってわけです。実存主義っていうものの始まりなんですね。

 

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それでですね、ずっとナッシュビルとか、桐島を待っててこないとか、ナッシュビルで大統領候補を待っててこないっていうのは、『ゴドーを待ちながら』という戯曲があるんですね、お芝居がね。で、これはベケットという人が1950年台に書いたものですけども、これはゴドーっていう人を待っている二人の男が出てきてですね、ずーっと待っているんですよお芝居の中で、で違う人が出てきたりするんですけど、結局目的としているゴドーっていう人は来ないんですね。で、来ないまま終わっちゃうんですけども、そのお芝居は。

で、一体これは何を意味しているかというと、一般的な解釈としては、ゴドーはゴッドなんだと言われているんですね。つまり人間っていうのは、みんな来もしない、来るわけがない神っていうのを待ち続けて生きていると、それ自体絶対に来ないかもしれない神様を待っているということが、人間が生きているっていう状況なんだということを言っているんですね。

 

じゃあどうするかって言うことはそこから自分で考えるわけですけども。それがゴドーを待ちながらという戯曲で、桐島っていうのはそのゴドーにあたる、来るわけもない、絶対最後まで現れない、世界の中心、世界の意味、世界に意味を与えているものなんだということなんです。

 

人生に何の意味があるのかを考えさせる映画

1番の問題はですね、人間は何故神っていうことを考えるようになったかというとですね、どうせ死んでしまうからですね。死んでしまって完全に無になってしまうんだと、何も残らないし、

何もその後に残らないんだと思ったら、人間っていうのはなんのために生きているかわからなくなってしまうんですね。

死で全て終わってしまうんだったら、どうして生きていったらいいかわからない。目的がわからなくなるんですよ。そこで神とかそういったものを創造したわけですけども、人間は目的を与えるために。人生とか生きることとかこの世の意味に。

 

ところが、その部分が否定されてしまった時にどうなるか。

これはね、実果ちゃんっていう女の子が、この『桐島』の中で言ってるんですけども、「どうせ私たちは負けてしまうのに、負けるってわかっているのに何で頑張っているのかしら。」っていうセリフが出てきますけども、あれはまさに人生そのものですね。どうせどんなに頑張ったって、どんなに金持ちになったって、どうせ死ぬんですよね。

 

で、何もかも消えてなくなるんだったら、何のために生きてるんだろうってことにも聞こえてきてしまうんですね。宏樹くんっていうのはそこまで、おそらくは考えてしまっているか、考えることを象徴しているんですね。

 

つまり、金持ちになって、大金持ちになって、すごく最高な暮らしをして、じゃあそれに何の意味があるのか、どうせ死んじゃうじゃないか、ってとこまで考えさせる映画なんですね。

この学校っていうのはヒエラルキーがあって、ピラミッド型のカースト制度があって、こう制度があるわけですね、一種のシステムが。社会と同じように、社会にも実際にシステムがあるわけですよ、貧しいとか、貧しくないとか、幸せとか、幸せじゃないっていう形で。

 

でもそれにどうして意味があるの?どうせ死んじゃうじゃん。

で、そのシステム自体も作り物じゃないか、それ自体にも意味が無いよと、いうところまで行ってしまいますよね。この意味ないんじゃないかっていう考え方っていうのは、ニヒリズムといいますよね。なんにも意味ないっていう考え方ですよね。

 

で、この中で全然気が付かないのはパーマですよね。このパーマは全然気が付かないですよね。そのシステムの中でパッパラパーで生きているわけですよね。友弘っていうのも気がついていないわけですよね。友弘は馬鹿ですからね、童貞でね。

 

ところがその中でですね、宏樹は気付いてしまったと、そのシステムって言うものは虚構なんだと、フィクションなんだ、幻想なんだっていうことに気がついてしまったんですね。

 

全くブレない3人

すべての人が不安になる、土台となっている桐島がいなくなったことでね。ところがこの中で全くブレない人達がいるんですね。桐島がいなくなっても関係ないっていう人が3人出てきます。ここがポイントですね。野球部のキャプテンですね、1人は。野球部のキャプテンはこう言いますよね。何でいつまでも引退しないのって聞かれて、「いや、ドラフトが来るまではね。ドラフトが来るまでは頑張るよ。」この時劇場の中では笑い声が起きたらしいんですけど、来るわけねえだろ、馬鹿じゃねのって。でもそこは笑うとこじゃないって監督が言ってますね。

 

つまりこのキャプテンっていうのは、来るわけもないドラフトっていうのを待ち続けて、それのために生きているんですね。これは神を信じている人ですね、いわばね。来るわけもない神様を信じている人ですね。彼は信仰者ですね、一種のね。キャプテンは信仰者を象徴してるんですよ。絶対に来ないものを、来るわけのないものを待って、それで生きていける人ですね。キャプテンは信仰者です。

 

ぶれないのがキャプテンの他に2人いましてですね、1人が吹奏楽部の亜矢ちゃんていう女の子ですね。で、もう1人は映画部の前田くんなわけですよ。

この二人何故ブレないか、これは非常にわかりやすいですね。

彼らはやりたいものが見つかっているからですよ。何をやりたいかがわかっているからですよ。宏樹はやりたいことを見失った人なんですよ。やりたいことが見つかっている人は別にブレないんですよね。社会のシステム、高校ではこのカースト制度とかね、金儲けであるとか、出世であるとか、学歴であるとか、そういったものは関係ないんですよね、好きなものを見つかっている人には、やるべきことがわかっている人には。別にそんなフィクションとか関係ないんですね、システムとか嘘っぱちなことは関係ないんですね。これものすごいわかりやすいですね。

 

失恋を芸術に昇華させる二人

で、この二人、亜矢ちゃんと前田くんはふたりとも失恋しますね。ところがその失恋した想いっていうものをそれぞれの打ち込んでいる芸術に昇華させていきますよね。

 

亜矢ちゃんはローエングリンっていう曲を吹奏楽部で吹くんですけども、あれは結婚式のテーマなんですね。そこも非常に象徴的ですけども。で、それが会心の出来で、失恋することによって彼女はですね、悲しい気持ちとかそういったものをですね、芸術に昇華させたんですね。

 

前田くんも全く一緒で、かすみちゃんにフラれっていうか、まあフラれるってなにも前田くんも亜矢ちゃんも二人とも告白もしていないんですけども、勝手に失恋するんですが、その気持ちをですね前田くんはゾンビ映画の中で、自己実現していくという形ですね。

 

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で、かすみちゃんへの想いをかすみちゃんを食い殺すというシーンに昇華させるんですけども、これはその前に彼が観ていた映画で『鉄男』、塚本晋也監督の『鉄男』っていう映画の中で、ドリルを付けた男がですね女の子をそれで殺すっていうシーンが、最初に出てきますけども、それとつながってくるんですね。かすみちゃんを食い殺すっていうシーンは。

 

コンプレックスとかそういったものを芸術になるということはこういうことなんだと非常にわかりやすく描かれてますよね。

 

大逆転の瞬間

そこでですね宏樹くん、生きる意味を失ってしまった宏樹くんと、前田くんが屋上で出会うんですけども、宏樹がですね、カメラを触らせてくれないかと言うんですね。で、どうしてかっていうと、つまり俺は生きる意味がわからなくって辛いのに、なんで前田っていう男はカメラを持って楽しそうにしてるんだろうと、このカメラに特別な力があるんじゃないかっていう感じで、不思議そうにカメラを触るんですね。あれが面白いんですね。ここに魔法があるんじゃないかと思うんですね、宏樹くんは生きる意味の。

 

で、そこでカメラでもって、持ってですね前田くんにインタビューをするんですね。あのインタビューはふざけているようで、本当のことを聞いていますね。つまり何で映画とってるの?映画監督になりたいの?女優と結婚したいの?アカデミー賞が欲しいの?って聞きますよね。あれは何を聞いてるのかというと、結果はどうなの?と、君たちが求めている結果は?目的は?目標は?意味は?って聞いてるんですね、前田くんに。

 

そしたら前田くんは照れながらですね、いやー、映画撮っていると、好きな映画とつながっているような気がして、としか答えないんですね。あれは、意味とか、結果とか、目標とか考えたことなくて、俺好きでやってるんだけど。って言ってるんですね。

 

その後ですね、前田くんの持ったカメラのフレームの中でですね、宏樹くんがものすごく悲しそうな顔をするんですね、夕日に照らされた宏樹くんの顔が悲しそうになるんですね。このシーンについて吉田監督ははっきりとこう言ってます、あれは大逆転の瞬間だと。あれは大逆転なんだと。どういうことかって言うと、宏樹くんは全てにおいて完璧で勝利者だったんですね。なんでも出来た。ただたった一つ持っていなかった。それは意味だったんですね、目的だったんですね。で、それで前田くんはですね、意味とか関係ないし、やりたいことがあるからやってるんだしと答える所で、前田は勝ったんですね。

全てを持っている宏樹に前田は勝ったんですよ。勝った瞬間ですね、あれね。好きなことやってるやつは勝ちなんですよ。それで上手くいかなくたって別にいいんだもん、好きなことやってるんだから。それで上手くいきゃないけど、なんか結果がなきゃ、なんか意味がなきゃと思っているから、勝ち負けって言うことがそこに出てくるんですね。

 

でももう好きなことやってるんだから、その段階で勝ってるわけですよ、前田は。だから宏樹くんは泣きそうになるんですよ。「かっこいいね」って言われて、あの時宏樹くんがはっきりと言葉で返すんだったら、「俺なんかかっこよくないよ。ほんとにかっこいいのは前田、お前だよ」っていうことでしょうね。「だって、お前やりたいこと好きにやってんじゃん、お前の勝ちだよ!」ってことだと思いますよ。

 

お前のほうがかっこいいよ!と、で、その後宏樹くんは学校を出てですね、まだしつこく桐島に電話をしようとしますね、携帯で。桐島から電話がかかってくるんですね。あれは神からのお呼びみたいなシーンですけども。その電話を取らないで、話さないでですね、携帯の蓋を閉じるんですね。なぜかって言うと、彼の目には一生懸命野球をやっている仲間が見えるんですね。桐島っていうのは意味の誘惑ですよ。

 

桐島っていうのは、どうやって生きていくの?意味あんの?目標は?みたいなね中心にあるもの、基軸みたいなもの、そういったものですよね。それに蓋を閉じちゃったんですね、最後宏樹くんは。

 

あのあと、本当に野球をやるのかどうかはわからないまま映画は終わってますけども、そっから先はみんながそれぞれ考えるということですね。

 

全ての物語っていうのは自分自身にたどり着くまでの話なんです

たださっき好きなことやってればいいっていう話をしたんだけども、先ほど言ったサルトルの『嘔吐』のラストっていうのはですね、実はすごく人間には意味が無いんだってことを悩んで、悩んで、悩んで、辛くなって、もうどこに行ったらいいかわからなくなってしまった主人公が最後に見出すのは、物を書くことなんですね。物を書いてみんなに読ませると、自分の考えを書いて読ませたいと思うんですね。そういう時に初めて、良かった、俺は生きていこう!と主人公は思うんですね。

 

これは全く、桐島の中に出てくる吹奏楽部の亜矢ちゃんと映画部の前田くんと同じ結論ですね。意味とかいいよ、とりあえず俺はやるべきことをやると、何か形にしてみんなに伝えると、自分というものを残すと、つまりこれは何かって言うと、自己を実現するってことですね。

 

自分の中にある自分自身を実現する、自分自身になるってことですね。芸術っていうのは自己実現っていうのはそういった意味だったんですね。それで、『ショーシャンクの空に』で、主人公が自分の独房に穴を掘っていって、向こう側に突き抜けるっていう話もそういう話なんですね。

 

つまり自分自身の中にある自分自身の一番深いところ、自分自身の本当にやりたい本質的なもの、本質っていうのはないんですから、好きな事がないってことなんですね、逆にいうとね。さらに、意味のない牢獄のような人生から突き抜けて、向こう側に行けるんじゃないかと、向こう側っていうのは、自分自身にたどり着くってことですね。

 

実は全ての物語っていうのは自分自身にたどり着くまでの話なんですね、哲学にしても、小説にしても、全ての物語は自分自身に帰ってくる、自分自身が見えなくなっちゃった、自分自身が見えない、自分自身に帰れっていう話なんですね、それを探すんだという話になっているんだと。

 

で、この桐島っていうのは、青春の物語にして、それを非常にリアルに、作り物っぽくなくですね、非常に残酷なまでにリアルに描きながら、ただ徹底的にリアルに描くと、現実ですからやっぱり普遍的な学校生活を超えた人生みたいなものに突き抜けていくんだということがよく分かるかと思います。

ラストシーンの野球に行くかどうかに関してもナレーションを入れてませんね、ちゃちな映画だと宏樹くんの気持ちを入れちゃうわけですよ、そこに。絶対ナレーション入れたでしょう。俺は前田みたいに打ち込めるものあるんだろうかみたいなね、おれにとっては野球なんだろうかとかね、そういうこと入れたかもしれないですね。

 

桐島は俺にとって何だったんだとか、そういうナレーション入れたかもしれません。でもそれをやってませんね。これはすごいと思いますよ。っていうのは、この原作小説っていうのは、逆に登場人物たちの独白、心の声だけで出来ているんです。それを今回映画化した時に、心の声を一切聞かせないと。これ逆のことやっているんですよ、原作と。これはほんとすごいことだと思いますよ。

 

前田勝ち!映画秘宝勝ち!

この映画でいろいろ悲しいシーンがあったんですけど、一番悲しいのは、普通の人たちは、前田くんが教室に戻ったら、かすみちゃんがパーマ野郎といちゃいちゃしているところを目撃してしまうというシーンが1番悲しいという人が多いと思いますけど、僕が悲しかったのは、ゾンビ映画を撮っているという話をした時にですね、吹奏楽部の女の子の亜矢ちゃんがですね、「それ、遊びですか?」って言うんですね。「いや、そうじゃないんだけど」って前田くんは言うんですけど、どう聞いても遊びにしか聞こえないよと、これはねえ、僕は人生の中で何度も言われました。

 

僕がゾンビ映画の話をしたり、ゾンビ映画を観たりですね、そういう雑誌を作ったりしてる中でですね、いろんな人に、「楽しそうにやってていいね」って、「遊んでんの?」とかね、いろんな人っていうかね、いろんなかみさんといかですね、娘とかですね、妹とかいろんな人に「怪獣とか、ブルース・リーとか楽しそうでいいね、遊んでんの?、いいね」って言われましたね、同級生とかね。「遊んでんの?」って、「遊んでるんじゃないんだけど、仕事なんだよ!」っていうふうにも言い切れないしっていう、非常に難しいところがあるわけですけども。そこで前田くんがはっきりと反論できないところが、まるで自分をみているようでしたけども。

 

でもね、遊びと仕事が一緒になってるんだから、一番いいんじゃないかっていう気もしますよ。これは最高なんじゃないかってね、これ勝ってねえかっていう気がするわけです。前田勝ち!映画秘宝勝ち!っていう気が非常にして。ただ映画秘宝を落とすやつが、ともひろっていうやつなんですね!

ともひろ、どうしようもないですね、童貞で、映画秘宝たたき落として!ともひろ、いいかげんにしなさい!笑

ってことで、『桐島、部活やめるってよ』でした。

 

映画評論家の町山さんの『桐島、部活やめるってよ』の解説が素晴らしかったので、全文書き起こしてみた。

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書き起こしてみました

町山:今日は皆さんお待ちかね、『桐島、部活やめるってよ』を紹介します。この映画は2012年に公開されまして。口コミで評判を広げまして最終的には日本アカデミー賞の作品賞、監督賞、編集賞、脚本賞、橋本愛ちゃんも賞をとり、各賞を独占した大傑作です。

この『桐島、部活やめるってよ』ですが、原作が朝井りょうさんが書いた小説で、これは一つの高校で、桐島という名のバレー部のキャプテンで、すごく人気があってですね、なんでもできる学校のヒーロー、高校の中心だった男が突然部活をやめるという情報が入りまして、しかも学校に来ないと、それで生徒たちが中心となる桐島を失ったために起こすパニックを描いています。

小説の方の主人公といえる人は、ひろきくんという男の子で、この子は桐島によく似た、なんでもできる、勉強もできる、スポーツも万能、人気もある、女の子にもモテる、かっこいい。そのひろきくんが、桐島くんが部活をやめてしまった事で、目標とかそういったものを見失ってしまうと。で、この小説はひろきくんの立場で書かれている部分もあれば、いくつかの、複数の高校生の視点からそれぞれの1人称で書かれているんですね。

もう一人は前田くんという子がいまして、前田くんは映画が大好きで、映画部にいて映画を撮っているんですね。青春映画を撮っていると。日本映画の心のあやとかそういうものを描く映画が好きだと言っている前田くんがいて、この子はいわゆるオタク系の子ですね。その彼の視点からも物語が語られると。

その他にも女の子とかいろんな人達の視点からそれぞれ物語が語られていくんですけども、物語というよりは、そのそれぞれの高校生たちの考え方とか、そういったものが描かれて、しかもそれぞれの子達は他の子達の心情がまったくわかっていない。他の子の視点になると初めてその子の気持ちがわかる。別の子がその子の気持ちを考えていたのが非常に勘違いだったということが描かれているのが朝井りょうさんの原作だったんです。これはおそらくルールズオブアトラクションという小説がありまして、それが影響を与えているんだと僕は思っているんですね。

 

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というのはブレット・イーストン・エリスっていう作家が書いた小説なんですけども、それはアート系のカレッジに通う学生たちの誰が好きとか、あの人がほんとは好きとかいう気持ちを、それぞれの視点から1人称で心を描いてるんですよ。

例えばAという子がいて、Bっていう子を好きだ好きだと思っていると、Bっていう子はぜんぜん違うCっていう子が好きでAの気持ちに気づいてないと、ところがCって子はぜんぜん違うDって子が好きでっていう風に、それぞれすれ違っていく、

全く咬み合わない感じで、思っていることも、あの人はこういうことを思っているんだ、こうなことを言ったけどもたぶんこんな気持ちなんだろうっていう風に勝手に推測すると、それがどんどん外れていくという、すごく皮肉な、悲しい、人間っていうのは分かり合えないんだ、勝手に勘違いしてるんだ、本当の気持ちなんて誰もわからないんだっていうことをかなり残酷に描いている小説が、ルールズオブアトラクションという小説です。これは文庫版が今でてるんですけども、僕が解説を書いていますから、ぜひ読んでみてください。すごく面白い小説です。

これは映画になったんですけども、映画版の方は原作の半分ぐらいしか映画にしていないんですけども、そちらの方もですねそれぞれの登場人物の視点で描いて、ひとつの出来事がひとつあると、もう一人の考え方、もう一人のキャラクターから同じ事件を描き直すとかですねそういうことをやっているのがルールズオブアトラクションという小説と映画です。

映画の方もなかなかすごい撮影技法を使っていますので、要するに複数のカメラで同じシーンを撮ったりするんで、とても複雑なんです。そちらの方もぜひご覧になっていただきたいんですが、それがもともとの小説「桐島、部活やめるってよ」なんですね。

 

単なる青春映画ではなく、普遍的な映画

ところがその小説が高校生の心を描いたものなんですが、それを映画化するときにですね監督が吉田大八監督という人でして、この人はですね、僕と同い年ぐらいの1960年台生まれぐらいの人なんですね。で、この高校生っていうのが自分のだいたい子供ぐらいの年代なんで、その高校生の気持ちになることはできないと言う風に彼は考えたらしいんですね。それでもっと違う話にしていってですね、もっと違うっていうのは、普遍的な話にしようとしてるんです。

 

単に高校生の話をビビットに描くということを超えた、もっとサラリーマンであったり、おじいさんであったり、もっと小さい子であったり、外国の人であったり、そういった人のも通じるような普遍性みたいなものを、この作品に映画化の時に与えることはできないだろうか、要するにただの高校生の青春の話じゃない話に出来ないだろうかというふうに吉田監督は考えたんですね。

 

そうじゃないと高校生の気持ちが自分でわからないから映画化なんかできないし、興味もないわけですから、そうしたわけですけども、その際に彼が取った手法っていうのが、ナッシュビル的手法です。

 

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ナッシュビルっていう映画があるんですけど、1970年代はじめに作られた、ロバート・アルトマン監督の映画なんですが、これはナッシュビルというですねアメリカに実際の市がありましてですね、これは南部の方の田舎の市なんですけども、そこはカントリーアンドウエスタンの音楽産業の中心地になっているんですよ。

 

そこに大スターのシンガーとか売れないシンガーとかですね、ブレイクしたいシンガーとかが集まるんですけども、その人間模様を描いてるんですね。いろんな人達の悲しい人間模様とか楽しい話しとかが並行して描かれながら、最終的には一箇所の集中していくという話になっているんですよ。

原作の方は全員が一箇所に集まるっていうようなクライマックスというか大団円はないんですけども、吉田監督はそういう展開に映画化の時にしたんですね。それはナッシュビルの影響、ロバート・アルトマン的な映画手法だと思うんです。っていうのは、このナッシュビルの手法はこの後ポール・トーマス・アンダーソン監督に引き継がれてですね、有名なマグノリアという映画がまさにナッシュビルスタイルの映画だったんですけども、複数の登場人物の物語が並行して描かれながら最後はひとつの大きな破局というかクライマックスに向かって突入していくという展開なんですね。

 

この桐島部活やめるってよも最終的には高校の屋上に向かってですね話が突き進んでいきます。全員がそこに集まっていくという展開になりますね。

 

前田くんを主人公にしたわけ

あとですね吉田大八監督が加えた変更の一つに前田くんという映画部の男の子が好きだった映画っていうのが、原作では青春映画だったりしたわけですけども、映画でははっきりと映画秘宝を読んでいるという嬉しい展開になってます。それでゾンビ映画が大好きだということになっていて、監督自身がみんなに相手にされていないオタク少年っていうのを表現するためには、映画秘宝だろうと思ったとインタビューで言っていて、ふざけんじゃねーよって思いますけど(笑)

でもまあそのとおりだよ!その人のために俺は映画秘宝っていう雑誌を創刊したんだよ!っていうことなんですけども(笑)

 

それで学校のカーストを描くときに、前田くんはカーストの1番下にいるっていうか、外側にいる感じになっているんです。

 

またそれだけじゃなくて監督自身が言ってるのは、ひろきくんっていう原作では主人公的な立場にいるスポーツ万能で勉強もできてっていう子には感情移入できなかったと言っていて、やっぱり前田くんにしか感情移入できないから彼を主人公にせざるを得なかった。

 

しかも彼を主人公にすることで、高校生の恋愛であるとか、いろんなことの内側に入って行かないんですよね。それで非常に閉じた友人関係で、その外側にいるために、その友人関係とか恋愛関係とかを外側から見てるという、映画監督である吉田さん自身の立場にもなっている、そして観客の立場にもなっているわけですね、外側から見てますからね。そういう点で前田くんを主人公にしてるんですね。

 

魂のさまよいを描いた映画

ただ前田くんを主人公にしたのは構造上の問題であって、思想的な主人公っていうのはひろきくんなんですねやっぱり。ひろきくんというのはなんでもできる人ってなっているんですけども、

なんでもできる人が楽しいのかっていうと全然楽しくないんですね。もうすでに桐島が行方不明になる前から自分はこれでいいのだろうか、自分は何をしたらいいのだろうかって悩み始めていると。それで野球部のエースっていうか期待されてた男なのにもかかわらず、野球部を辞めてしまっていると、それでほとんど練習に出ていないと、

 

で、勉強もできるみたいなんですけど、それははっきり描かれないんですけど、たぶんできるんですね。で、女の子からもモテモテで彼女もいると。彼女のほうが積極的でっていう感じなんですけども、でも楽しくないんですね。何をしたらいいかわからないんですね。

 

この映画1番最初でですね、進路、高校を出たらどうするかっていう進路についてちゃんと書いてこいと先生がプリントを配るところから始まるんですけど、これは非常に意味があって、要するに、お前これからどうするんだと、どうやって生きていくんだと、お前一体何になるんだということを問われてしまった時に、ひろきくんはわからなくなっちゃったというところからこの映画が始まるんで、これはひろきくんの物語なんですね。

 

で、実は観客自身にも問いかけているんですね。これはなんのために生きているか、生きていく意味がわからなくなった人の話ですよってことですね。ひろきくんを通してそれを考えてみてくださいっていう話になっています。彼の魂のさまよいを描いた映画なんですね。

 

本当のテーマはセリフには出さない

なんでもできるっていうふうな設定になっているのは、なんでもできる、どんな選択肢もあると、だから逆に選べないってことを設定するためにそういう設定になってますね。

 

この映画が公開された時に、高校生ぐらいの若い子たちが観に行った時に、わからないっていう風に言われたらしいんですね。なぜわからないかというと、セリフに出してはっきりと言ってないからですね。例えばひろきくんが「どういうふうに生きたらいいんだよ」っていうセリフ、普通の映画だったら言っちゃうんですけど、原作でも「俺は空っぽなんだ」みたいなこと言ってるんですけど、そういうの一切切っちゃってるんですよ。そんなこと普通話さないだろうと、高校生は。

 

で、セリフの中で出てくるんですけど、みかちゃんっていうバドミントン部で一生懸命頑張っている子がですね、「マジなこと言ったってしょうがないし」って言うんですね、というのは彼女はふざけてるのではなくて、みんながマジなこと言うと馬鹿にするから、高校生同士っていうのは。だからほんとにみかはまじめにバトミントンが好きなのにそれを熱く訴えると馬鹿にされるから言えないんだということを言うんですけども、

 

これはこの映画の大事なトーンになっています。つまり本当のテーマは言えないんだよと、本当はみんな悩んでいるんだけど、それは口に出して言えないんだよ、ダサいって言われるから。

 

観客は常に推理しなければならない

これはですね、2つ大きなポイントがあって、一つはほとんどのドラマの映画ではダサいっていってみんなが言わないことを言ってますよね。わかりやすくするために観客に対して。言わないよ!こんなこと!ってこと言いますよね。

 

おれはどうして生きて行ったらいいかわからないんだよってね。俺はほんとにこの試合にかけているんだとか、言いますよね、ドラマとかでね。でも言わないでしょ、高校生は。恥ずかしいもんそんなこと言ったら。馬鹿じゃねーかお前、青春ドラマじゃねーのって。青春ドラマなんですけどこれはって言う問題もありますが(笑)、言わないですよね。だからこの映画は言わないようにしてるんですよね。

 

で、原作も別に、空っぽだっていうのも本人の気持ちとして書かれているけども、言葉に出して言ってないんですね。原作はそれぞれの登場人物の心を書いているんですが、この映画では一切心を、要するにモノローグっていうんですが、心の声を出してないんですよ。

 

これはものすごい難しいことをしていますよ。原作は心の声だけで描いているのに、映画では一切心の声を出さないっていうことはすごいことですよね。彼らはみんな表面的な友だちとの会話しかしていないんですけど、それはほんとの気持ちじゃないんですね。観客はそれを見ても、この人はほんとにこう思っているとは断言できないんですよ。これは怖い、難しい映画ですよ。だからわからなかったんですよ。

 

でもこのわからなさ、相手の気持ちがわからない、みんなの気持ちが嘘かもしれない、笑顔をしているけどほんとは泣いているかもしれない、泣いているけども違うかもしれないって現実ですよね。現実の高校であったり、会社であったり、現実の人間関係ってそうですよね。それを映画の中でやっているんですよ。だから観客は常に本当はこの人は何を考えているのかを推理してみなければならないんですよ。桐島が公開された時に、すべてがパズルのように組み合わさるというふうに宣伝されましたけど、そういう構造上の問題ではないんですね。

 

心の問題なんですよ、この映画での最大のミステリーっていうのは。本当の心を誰も言っていないんですよ。ただ別の言い方で言ってます。本当の心をみんなぽそぽそと言っていますが、すごく隠して言ってます。それはあっこれはここなのかと、これが彼の言いたいことなのか

っていうのは見つけなければなりません。隠してあります。昔ゼビウスとか、古いですけども、TVゲームで隠れキャラってありましたよね。ぜんぜん違うところをいきなり撃つとそこからボーナスポイントが出てきたりしましたけどもそういう映画です。隠れているところを撃たないとわからないんですね。

 

同調圧力の恐ろしさ

で先ほど主人公はこの映画では前田くんにしていると言う風に言ったんですけど、前田くんはかすみちゃんっていう中学時代から同じ中学だった子とも話ができなくなっているんですね。つまり彼女はかわいいこチームで、自分はオタクチームだから。

 

でも非常にかすみちゃんのことが気になるんですけど、このかすみちゃんって子はほんとに何を考えているのかがほんとにわからなくこの映画は作ってますね。それは前田くんの立場から見てるからなんですけども、前田くんがみんなに馬鹿にされて、みんなというかはっきり言うと、沙奈といういやな女がいまして、これがひろきの彼女なんですけども、ほんとにいやらしい女なんですけども、これはほんと演技が上手いんで、役者が嫌じゃないのに、その役者が嫌いになるというですね、すごく困ったことをしているんですけども(笑)松岡茉優という女の子がやってますね。

 

この子はすごくうますぎてですね、ほんとムカムカするんですけども、(笑)ほんとに馬鹿にしているわけですよ、オタクとか一生懸命な人とかを。ただ彼女が馬鹿にしているのをみんなはっきりと馬鹿にするなと言えないんですよね。そういうことを言ったらかっこ悪いから、ダサいからとかで、さっき言ったみかちゃんっていう子は、バドミントンを一生懸命やりたいのに、

「部活とかさ-」とか言うわけですね。沙奈っていう子が「部活とかよくやってられるよね-」って言った時に、「そうよね私も内申書のためにやってるから」って心ないことを言っちゃうんですよね。そういう心ないことを言わせるような同調圧力的な世界っていうものの恐ろしさっていうものを描いているわけです。

で、その中でかすみっていう子の、橋本愛が演じていますけど、何考えているかわからないんですよね。沙奈っていうのはばかにするわけですよね、オタクっていう人とかを。馬鹿にした時にこのかすみちゃんだけは笑わないんですよね。他の子達は結構同調してハッハッハッとかって笑ったりするんですけど、かすみちゃんだけは笑わないんですよ。特に前田くんが馬鹿にされている時に笑わないんですよ。これは前田くんには見えないんですけども、観客は笑わないのを見ているから、彼女は前田くんに同情しているんじゃないかと思うんです。でも騙されましたよ、前田くんと一緒に。この女ふざけんじゃねえって思いましたけどね。(笑)

そういうショッキングなシーンもありますけど、またそれをもう一回ひっくり返したりするんですよね。ふざけんなこのアマ-とか思ってね、その後もう一回ひっくり返されるとこも上手いです。

 

ゾンビ映画を通して本当のリアルを描こうとしている

この映画みんながいいたいことを言おうとするとそこで切るというですね、言いたいことを言わせないから観客が考えろっていう形になっていますけど、この前田くんが映画秘宝を大好きで、ゾンビ映画撮ろうとしてシナリオを顧問の先生に見せるとですね、こんなんじゃなくてもっと青春のちゃんとした自分の身の回りのことを描けよ、もっと自分自身のことを描けよと。恋愛とかさー、受験とかさー、友人関係とかさ-とか言うんですよ。そのほうがリアリティあるだろうと、ゾンビのほうがリアリティないだろうと言うんですね。実はこの映画は青春映画であって、受験とか恋愛とかを描いているんですけども、でも前田くんにとっては違うんですよね。

 

前田くんはその時にどういうふうに反論するかと言うと、先生はジョージ・A・ロメロの作品見たことありますかっていうんですね。ところが先生は、そんなマニアックなものみたいな話をして、話がそこで途切れちゃうんですよ。でも何を言おうとしたかってとこなんですよね、前田くんは。

 

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でもそれはこの映画の中では、はっきり言ってないんですけども、ジョージ・A・ロメロ監督っていうのはゾンビとか、ナイト・オブ・ザ・リビングデッドとかラン・オブ・ザ・デッドとかそういった映画をずっと撮ってきたんですけども、彼自身インタビューで言っているんですけども、「俺はゾンビの映画を撮っているけど、ゾンビの映画じゃないんだよこれは。人間についての映画なんだよ」ってはっきりと言ってるんですね。社会についての映画なんだと。ゾンビを通して何を言わんとしているかというと、これは現実なんだと、リアルなんだと、リアリティなんだってはっきり言ってるんですよね。

リアリティを最もリアルに描くにはそのまま描くより、ゾンビなんだって言っているんですよ。これが言いたいんですよ、前田くんは。でもこれはそこまで言っちゃうと、わかりやすくなりすぎちゃうから吉田監督は切っちゃっているんですね。だからインタビューでも、ゾンビ映画にしているのは映画秘宝とか読んで、ゾンビが好きなやつって、いじめられるじゃんっと、カーストの下層だからそれを意味するためにそうしたんだと言っているけれど、そうじゃないんですね実は。ゾンビ映画を通して本当のリアルを描こうとしているんですね。

 

ジョージ・A・ロメロ監督はナイト・オブ・ザ・リビングデッドを描いた時に、彼はベトナム戦争とアメリカ国内で起こった人種暴動とかですねカウンターカルチャーによる反戦運動とそれを弾圧する学生たちというかなりアメリカ自体が血まみれの一種の内戦状態に突入していた状況っていうものを、ゾンビと、それと戦う人間と、さらにそれを撃ち殺す銃を持った集団と、三つ巴の闘いを描いているんですね。

 

しかも若者たちが親の世代に反抗していくということがその時現実に起こっていたんですけども、反戦運動であるとか過激派的な左翼とかですね、爆弾テロとかですね、そういったことが実際に起こっていたんですが、それを少女がお母さんを刺し殺すことで象徴的に描いたりですね、黒人の人達の暴動を警官が武装で射殺して弾圧していくという、その時起こっていた現状っていうものをラストシーンに象徴させているんですね。

 

しかも白人が全く役になたなくて、黒人の指導者がもしかしたらゾンビとの戦いの中で、優秀にこの社会を変革していって、よくしてくれるかもしれないぞと思わせといて、その人を射殺してしまうっていうのは、マーティン・ルーサー・キング牧師が黒人の公民権運動のために戦ったのに、それを殺害してしまったという事件を象徴させていたり、そういう現実に実際に起こったことをそのまんま描くんじゃなくて、ゾンビにすることでより強烈に、しかもより普遍的に、その事件そのものを描くよりも、ゾンビにすることで全世界の人が根本にあるスピリットとか精神とかそういったものを直接感じることができて、しかも何十年たっても古びないっていう方法を選んだんですね。

 

それがゾンビ映画の精神なんですよ。だからゾンビ映画っていうのはすごく嫌な感じがするんですよ。ただゾンビが出て来ました。キャーキャーキャー、バンバンバンっていう映画もいっぱいありますけども、ジョージ・A・ロメロはそうじゃないんですね。もっともっと現実の根底にある差別とかそういったものをゾンビに込めているんですね。それを前田くんは言いたかったのに、言おうとした所で切っちゃうんですね。そこがすごいですね吉田監督の。

 

前田くんの心の中

しかもそこですごくよかったのは、顧問の先生がジョージ・ロメロとかマニアックなこと言うなよっていうんですけども、ジョージ・ロメロはマニアックではないです。はっきり言って映画秘宝とか読んでいる人にとってはジョージ・ロメロは入り口中の入り口です。ブルース・リーにとっての燃えろドラゴンと一緒です。ブルース・リーにとっては死亡の塔の事を言ったらマニアックです、でも燃えろドラゴンについてはマニアックではないんですよ。その辺も上手いんですよ。この先生わかってない感じっていうのがよく出てるんです。

 

あと日曜日にですね前田くんが映画に行って、そこで観ている映画が鉄男っていう映画なんですね。そこでかすみと出会うんですけども、観てる鉄男っていう映画は、塚本晋也監督の映画で、どういうシーンかっていうとペニスがドリルになってそれで女の子の股間を貫通して殺すっていうシーンが出てきてるんですね。これはもうすごくわかりやすいですね。これはものすごい性的コンプレックスと攻撃性ですよね。

 

それが前田くんの中にあるんですよね。もちろんこれは伏線になっていますね。単に鉄男を観ているっていうわけではないんですね、これは。前田くんの心のなかを覗いているんですよ。それをかすみちゃんも覗いてくれたんですね。っていうシーンなんですねこれは。

 

なぜ前田くんっていう非常におとなしい、オタクの少年がスプラッター映画ばっかり、映画秘宝的な映画ばっかり、残酷な映画ばっかり観ているのかっていうのも、ちゃんと意味がありますよね。そう考えると。もちろんそれは伏線で最後のクライマックスに突入していく時にわかるわけですけども、全部意味がありますね。意味が無い人間なんていないですよ。

 

実存とのぶつかり

ところがここで大事なのはひろきくんが意味を見失ってしまったんですね。何のために部活やっているんだ、何のために野球やっているんだ、野球選手なるわけじゃないじゃん、野球で大学行くわけじゃないじゃん、もっと突き詰めると何で大学行くの?、何で会社入るの?、何で社会で働くの?何でお金もうけなきゃいけないの?、何で子供作らなきゃいけないの?、何で結婚しなきゃいけないの?、何でそんな恋愛したいの?、俺恋愛してるけど全然楽しくないよ、なんのために生きてるの?全然楽しくねえよ!ってことですね。ひろきくんがぶつかっている問題っていうのは。

 

で、この中で友弘っていう男の子が出てきますね。友弘くんは「セックスしてーなー」って言って、セックスっていうものはすごくいいものなんだって思っているんですね、彼は。その先に何かあると思っているんですね。このひろきくんはたぶんしたんですねこのいやーな女と。いやーな女ってことはないけど沙奈ちゃんと。そんなに楽しくなかったんですね。いやーほんとは楽しいんですけどね。(笑)楽しみ方を知らないのかもしれないですけど。楽しくなかったんですね、彼。たぶんこの女の子がやな子で、気ばっかり使ったからだと思うんですけど、まあとにかく楽しくなかったんでしょうね。友弘くんは童貞ですからセックスに何かあると思ってすごく憧れているんですけど、ひろきくんはセックスにも、恋愛にも何も見いだせなかったんですよ。

 

で、勉強できるから受験っていうのに集中することも出来ないんですよね、逆に。どこでも入れるんですよね、たぶん彼は。みんなコンプレックスあるじゃないですか。かっこわるいとか、背が低いとか、彼にはそれもないんですね。超えるんべきものもないんですよね、完璧だから。その時ぶつかったのは、その先に何もない世界なんですよ、彼は。

これって何を意味しているんでしょうか。こんな完ぺきな人いないですよね。

 

彼と同じような悩み持っている人他にいないですからね。でも逆に彼はすべての人を意味しているんですね。すべての若者じゃなく、すべての人ですよ。誰でも必ず何のために生きているか、何のために生活しているのか、例えば車を買いたいと思っている人がいるかもしれないですけど、その車を買うっていうのに何の意味があるのか。おしゃれすることに何の意味があるのか。ふと気付いてしまったら、何の意味のないことに気づくんですよ。

 

だって人間どうせ死んじゃうんですよ、何をしたって。何の意味があるんだっていう根本的な問題にぶつかったんですよ、ひろきくんは。これを実存と言うんですね。実存主義っていうのは何の意味があるんだって、ほんとに悩みだしたら意味なんてないんじゃないのってことが実存主義っていう哲学ですね。彼は、ただの高校生であるにもかかわらず、実存主義って言葉をしらないにもかかわらず、実存主義にぶつかったんです。

 

そんなことを考えながらこの映画を観てもらうと、いろんな言葉が生きてきますね。だからただの青春映画と思わないでほしいです。そういう風には監督は作ってませんから。

ではいったい何なのかってことは、このあと復習編でお話したいと思います。

 

町山智浩さんの『風立ちぬ』の解説が深かったので書き起こしました。

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TBS RADIO たまむすび: 町山智浩アーカイブ

TBSラジオたまむすびで町山智浩さんが映画『風立ちぬ』の解説をしていたので、書き起こしました。1週間以内ならリンクから音声が聞けます。

 

書き起こしました。                

町山)よろしくおねがいします。『風立ちぬ』を観るために帰ってきました。僕の友だちが大絶賛なんですよ。「観ろー」とか「泣いた」っていう話でね、「特にお前のようなやつは観ろ」みたいな話があって。 

赤江)実は私観たんです。正直、ん?っていう所が多くて、でもねこういう巨匠の作品を「わからん」って言うと馬鹿だと思われると思って、黙っておこうみたいなぐらい、正直ん?これどう捉えたらいいんだろう?みたいな感じだったんです。

町山)評判はあんまり良くないんですよ、一般的には。

山里)僕も観に行った友達から、あんまりだったみたいな話を聞いて、それで観に行ってないんですよ。 

町山)そう。一般観客の評判はあまり良くないんですよ。そうだろうなと思いましたよ。というのはクライマックスがないんですよ、はっきりした。物語の目的がわからないんですよ。主人公は何に向かっていて、何を解決しなきゃいけないのかという、一般的な物語って必ずそれがあって、それを解決してみんな終わるわけじゃないですか。それがないから、どう観たらいいかわからないって人が多いですね。

 

宮崎監督の妄想なんですよ

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後ね、もうひとつはね、これはどういった話かっていいますと、宮崎駿監督がずっとプラモデル雑誌に連載していたマンガの映画化なんですよ。

モデルグラフィックス』っていうプラモデル雑誌があって、それにずーっと昔からマンガを連載しているんですよ。その映画化なんですが、実際の人物についての映画化でもあるんですね。

 

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堀越二郎さんていう零式戦闘機を設計した人と、全然関係ない名前だけ1文字だけ同じの堀辰雄っていう小説家がいまして、その人は自分の奥さんが、奥さんっていうか婚約者が結核で若くして死んだっていう実際の体験を書いた小説で『風立ちぬ』っていう小説があるんですね。

それをごっちゃにしたものなんですよ。一緒くたにしてて、しかも婚約者っていうか、中では結婚しているんですけども、奥さんが死んだっていう話は全然堀越二郎さんの話とは無関係なんです。勝手にこの人の奥さん死んだって話にしちゃってるんですよ。笑

 赤江)それを知らずに観ている人は、堀越二郎さんの奥さんはこういう感じだったのかなって思いますよね。

 町山)そう思っちゃう人もいますよね。実際に現実の人物だった堀越二郎さんの実話と、堀辰雄さんの実話を元にした小説をごっちゃにしたんですよ。全然関係ない二人の人物の体験を一人の人にしちゃっているんですよ。

これいいのかなって思ったら遺族の方が許可を出したらしいですけど。これは妄想なんですよ。宮崎監督の妄想なんですよ。宮崎さんの原作のマンガにははっきりと妄想と書いてるんですよ。これは私の妄想であるってちゃんと書かれているんです。

赤江)だからね映画の中にわりと夢が出てきますよね。夢のシーンが多いですよね。

町山)そうなんですよ。これは主人公の堀越二郎さんが、何かを見るたびに自分の飛行機のいろんな設計のアイデアと結びつけて妄想するんですよ。次々と想像してハッと現実に戻るっていうのを繰り返すんですよね。

だから昔の映画で『虹をつかむ男』っていう映画がアメリカの映画がありまして、それは主人公が常に妄想してて、なにか見ると妄想してっていうのが現実として映画の中では映像化されるから、観てるほうはどこまでが夢でどこまでが現実なのかわからないっていう映画があるんですけど、それに近い、『虹をつかむ男』系の映画なんですよね。

山里)『中学生円山』もそういうような映画ですよね。

町山)そうそうそう!『中学生円山』もクドカンのやつも主人公の中学生が、すぐにあいつはスパイじゃないかって思うと、スパイ・アクションが展開したり、あいつはなんかクンフーの達人じゃないかって思うと、クンフーアクションになったり、中学生の妄想をそのまま映像の中に入れちゃってるんですよね。それをアニメでやってるんですよ。

 

自分の考えていること、決して口に出して言わないんですよ。

これね、1番わかんないのが、主人公の堀越二郎さんが自分の考えていること、決して口に出して言わないんですよ。寡黙なんですよ。で、最近の日本映画って特にそうですけど、主人公たちが全部自分の思っていることを言って、ディスカッションするんですよ。そういう映画ばっかりなんですよ。ひどいことになってるんですよ。

こないだ飛行機に乗ってこっち来るときにですね、『藁の楯』っていう映画観てたんですけど、それで松嶋菜々子さんが刑事で、連続殺人鬼の藤原竜也君をずっと連行する話なんですけども。藤原竜也君がいきなり松嶋菜々子さんをぶっ殺すんですよ、突然。その時に「何で殺したんだ!」って言うと、「このババア、くせーんだよ!」って言うんですけど、なんてひどいことを言うんだって思いますけど、こんなこと言うかーッて思うんですけど、全員が全員が思っていることをぶちまけあうんですよ、日本映画って最近。全部説明するんですよ。「私はこういうこと思ってますよ」とか「俺はそうは思わない」とか。それに慣れると『風立ちぬ』っていう映画はわからないんですよ。

なんにも言わないんですよ、この人。で、これは戦争が起こり始めてるっていうか戦争に向かい始めているんですけども、それに対して彼は武器を作るっていう仕事をしてるわけですね、戦闘機を作るっていう。その葛藤があるだろうとみんなは思うんですけど、葛藤に関して主人公は何も言わないんですよ。だからやっぱり、それを言ったほうがいいんじゃないのって他の日本映画だったら言っちゃうんですよ。会話でねディスカッションしたりするんですよ、「戦争というのは」とか言って。

言わないんですよ、これは。

山里)「俺はこんなために作ってるんじゃない」みたいなこと。

町山)そうそうそう!そういうこと言うんですよ。「俺はホントは空を飛ぶのが好きで」とか言って、「でも戦争は良くない」とかね。

言わないんですよ!言うのは下品ですよ、やっぱそれは。当時の人達は思っていても言えなかったんだろうし。

 

わかってくれっていう映画

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だからこれね、でも言ってるっていうね、すごくわかる人だけに言ってるっていうか、わかってくれっていう映画なんですね。

例えばユンカースっていうドイツの航空機会社に視察に行く所あるんですね、この堀越二郎が。で、ユンカースっていう人が作った爆撃機を見るんですけども、それだけなんですよ。それで突然警察みたいのが出てきたり、軍隊観たいのが出てきて、謎の行動が周りで行われているらしいんですけども、一体それが何かわからないんですよ、映画観てると。

で、それはどういうことかって言うと、まずユンカースっていう人は戦争に反対していたんですね。ユンカースっていう博士がいて、爆撃機とかを開発した人なんですけども、爆撃機とかを作りながらもすごいナチスに逆らってて、最後はナチスに監禁されて死んでいくんですよ。そういう人生をたどった博士で、偉大な航空工学家なんですけども、その人の人生って、まさに戦争に反対しながらも兵器を作るっていう人の代表ですよね。

それを出すっていうことで、わかってくれよなんですよ。説明はないんですよ。一瞬なんですよね。

あと、途中でドイツ人が出てくるんですよね、謎の。軽井沢に行くと、軽井沢に主人公が行く理由もほとんどわからないんですけが、軽井沢に行くと、ドイツ人がいて、友情ができるんですね。でね、いい曲がかかるんですけど、今かけていただけますか。『ただ一度だけ』という歌。『ただ一度だけ』という主題歌なんですよドイツ映画の『会議は踊る』という映画の。それを全員で、ビアホールみたいなところで合唱するシーンがありますね。


ただ一度の (ドイツ映画「会議は踊る」より) 高橋晴行 - YouTube

風立ちぬ」で二郎と菜緒子が療養より二人でいることを選んだ心の内は、軽井沢で合唱する「ただ一度だけ」の歌詞が語り尽くしている。BY町山智浩

 

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あのドイツ人っていうのは何かって言うと、あのドイツ人は「ドイツは戦争に向かっている」「日本は戦争に向かっているよ」と、「我々は破滅するよ」と堀越二郎に言うんですけど、そうすると堀越二郎はそれを受けいれるんですよね、「そうですね」って言うんですね。「そうじゃない!」って言うべきじゃないですか、その頃の日本じゃ。「日本は絶対勝つ」とか言うべきじゃないですか。言わないんですよね。受け入れるんですけど、あのドイツ人は誰かって言ったら、あれはソ連のスパイですよ。おそらく。

逃げてるでしょ。逃げるシーンがあるでしょ。あれはゾルゲでしょおそらくは、ソ連のスパイ。

赤江)あー!そうなんですか!

町山)セリフには出てこないし、わからないですけど、たぶんゾルゲのような人物であって、ドイツや日本の戦争をやめさせようとか思っているドイツ人で、軽井沢に潜入してきただろうというところがあるんですが、何もそれを言わないんですよ、この映画は。

赤江)そうだ!ほんとにそう!

モネのタッチで描いてある

町山)そういうことをね、ずーっとやってるんです。例えばすごく印象的な絵柄でですね、初めて主人公が菜穂子さんに合うっていうシーンがあるんですけど。菜穂子さんっていうのは『風立ちぬ』の主人公の名前をそのまま使ってるんですけども、丘の上に立ってパラソルを持ってですね、絵を書いてるっていうシーンで、これで出会うんですけども、この絵っていうのが最初のモチーフになってるんですね、『風立ちぬ』っていう原作の。

 *菜穂子は「風立ちぬ」のヒロインの名ではなく、堀辰雄の「菜穂子」のヒロインです。後に訂正されてます。

 

パラソルを持った夫人

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これって一体何かっていうとクロード・モネの絵なんですよ、元々。

有名な『パラソルを持った夫人』なんですよね。こういったいろんなイメージが中に出てきて、特にクロード・モネの絵のイメージっていうのは全体に散りばめられていて、例えば関東大震災のシーンはすごいですけども、あれで雲がぶわーって広がるところもモネのタッチで暗雲を描いてるんですね、爆煙とかを。これすごいことをやってるんですよね、結構。

 

どんなに危険なときにも妄想をやめない

あそこでこう、煙が、ものすごい火災が起きて、大震災で。すると煙が舞い散るところで、主人公の堀越二郎は、突然妄想を始めて、飛行機が飛んでる妄想をするんですね、爆撃の妄想みたいなものを。この人はどんなに危険なときにも妄想をやめないんですよ。これはね、僕の友達の映画監督たちがみんな、「俺だよ!」っていうんですよ、彼らは。みんな「あれは俺だ!」って言ってるんですよ。

どんなに自分が危険な状態にあっても、常に自分の妄想の中に入っていくんですよ。これは映画監督とか、シナリオライターをやっている人たちとか、撮影とかやってる人、アニメーターとかはみんなそんな人達ですよ。

道を歩きながらビルを見上げて、ビルの向こうから怪獣が出てくるのを想像するんですよ、彼らは。それこそ大震災であるとか、大変な事件があって悲劇が起こっても、どう撮ろうか、どう表現しようかってことばっかり彼らは考えるんですよ。頭のなかに絵コンテがバーって出てくるんですよ。

そういう人たちなんですよ。そういう人種なんですよ。それは非常に不謹慎な人たちですよ、はっきり言いとね。けど、そういうものなんですよ。ものを作る人達っていうのはそういうところがあるんですよ。

で、この人はまさに戦争の道具である戦闘機を作るんだけども、戦争そのものに対して責任はどうなのかっていう事を問うているわけですね、この作品の中で。で、宮崎駿さん自身がそういう人で、とにかく戦闘機とか戦車が大大大好きな人なんですよ。でも、反戦映画を撮っているでしょ。戦争はいけないんだっていうことを映画の中で言うじゃないですか。でもその割には戦闘シーンをめちゃくちゃ快感で撮ってるじゃないと。あんた戦争の道具大好きでしょうと。大好きですよ、でも戦争は絶対いけないと思うと。そうした矛盾した気持ちっていうのを持ってるのが、こういった物をつくってる人たちなんですね。

 

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オッペンハイマー

アニメーターである宮崎さんは、そういった形で戦争の快楽っていうのを描きながらも、それは悲劇であると同時に訴えると。で、こういった技術者の人たちは、戦争に反対しながらも兵器を作る。具体的にはオッペンハイマーという人がいまして、その人は原爆の父なんですけども、原爆を作ったんですけども、原爆の使用には反対してたんですよ。死ぬまで核戦争とか、そういったものに反対し続けて、平和主義者だったけども、だけど技術者としては原爆を作りたいわけですよ、作れるんだもん俺には。できちゃったよ、でも使わないで。っていうまさにそういうところですよね。

だから零戦を作ったってところで、零戦っていうのは何百機も何千機も作られましたけども、乗った人は全員死んだんですよ。これは大変なことで、自分が作ったもので何百人、何千人っていう人が死んだってことで、ものすごい辛い罪を背負ったわけですけども、まさしくオッペンハイマーと同じですよね。

 

男の子の病

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でもね映画作っている人達はみんなそうでね、スピルバーグっていう監督がいますね。あの人はね、ものすごい戦争マニアなんですよ。『プライベート・ライアン』とか『戦火の馬』とか作ってますけど、とにかくどんな映画監督よりも戦争を忠実に、現実通りに描く人で、兵器マニアとか軍事マニアの人はスピルバーグの映画だと大喜びするわけですよ。細かい制服の、軍服のバッジみたいなところまで忠実なんですよ、スピルバーグの映画っていうのは。

それなのにあの人戦争は大っ嫌いなんですよ。『ミュンヘン』とか『シンドラーのリスト』とかで戦争を絶対に反対する男達の映画を描いているわけですね。戦争は絶対いけないんだと言いながら、誰よりも戦争が好きでたまらないんですよ、スピルバーグは。

それはたぶんね、ほとんどの男の子はそうだと思います、みんな。例えば富野由悠季さんっていうガンダムの人も、戦争を子供の時に体験して、戦争モノじゃないですか、ガンダムとかって、でもそれでどうなるのかっていうと悲劇しか待っていないんですよね、現実ではね。それもちゃんと描くというね。これは男の子の病気です。男の子の病です。

 

映画っていうのは誰に対しても開かれているってものじゃ決してない

赤江)だから男性のほうがもっかい観たいっていう人多かったです。

町山)そう。だってこれに出てくるの、メカいっぱい出てくるじゃないですか。電車から市電から一銭蒸気っていう小さい蒸気船も出てきますけど、それから空母から戦艦から出てきますけど、あの描写観てるだけでも、男の子はたまらないわけですよ。

ネジがまた重要なんですよ、リベットっていうんですけど、あれね沈頭鋲っていう、鉄板というかジラルミンの板をつなぐのにですね、鋲を打ってるんですね、戦闘機の表面にね。あの鋲が出っ張ってると空気抵抗が出るんで、出っ張らないやつをつけるんだみたいな話が延々と出てくるんですけど、あれは俺たちにとっては最高の話なんですよ!ネタとして。

宮崎さんっていうのはとにかく、兵器に打たれた鋲の描写っていうのにものすごいこだわってた人なんですよ。あの人のメカって必ず鋲が書いてあるんですよ。あの人以前のアニメには鋲は書いてなかったんですよ。

だから鋲にこだわるっていうのがあって、主人公の堀越さんっていうのは、この映画の中では『魔女の宅急便』に出てくるとんぼ君っていう男の子いたでしょ、メガネかけた、あれが成長した姿なんですよ。飛行機が大好きでっていう、あの男の子。で、『ラピュタ』に出てくるパズーもそうですけど、機械が大好きで。あれも全部宮崎さん自身なんですよ。機械が大好きで大好きでたまらないという自分自身ですよね、でも戦争は嫌いだと言う風に描いてるんで、ほんとにこれは普通の人がどうこうっていう問題ではなくて、映画っていうのは誰に対してもひらかれてるっていのじゃ決してないんですよ。個人的な映画っていうのもあるんですよね。すごく個人的な映画です。これは私のことであるっていうことで。

 

庵野さんのような人じゃなきゃ出来ない声

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だから声優さんにですね、庵野秀明さんを使ってるんですけども、『エヴァンゲリオン』の監督なんですけども、これは結構棒読みだとか、素人だとか言われて批判されてるんですけども、あれは声優さんだとか、プロの人が、要するに世慣れして、誰の心も演じられるような人が演じちゃだめで、人の心なんかわからないし、世の中のこともわからないけども、好きな事をやり続けるアホのような男が声をやらないといけないんですよ。だから庵野さんにやらせたんですよ。

庵野さんはぼーっとしてるわけですね、声出しながら。で、人の話を聞いていないっていうシーンが凄く多いんですよね。聞いてない、妄想してるんですよ。「なんだっけ」って言ったり、返事もしない。そういう人じゃないとこの声は出来ないんですよ。

裏情報で失礼なんですけども、庵野さんの奥さんはこの映画を観た後、ほんとに泣いたらしいですね。そういう男と結婚してしまった悲劇でもあると(笑)。でも、それで嫌いになれないでしょ、そういう男を。夢見てる男なんだもん、常に。そういうドラマだったんですね。

 

男の子の飛行機ごっこ

これ飛行機が飛ぶところを、「プルップルップルッ」って口で言ってるんですよ、この映画って。「プーン、プルプルプル」とかね「ヒューン」って声で出してるんですよ。何故それをやってるか、ごっこ遊びですよ。おもちゃの飛行機をもって子どもたちが、「プルプルプル」とか「ブーン」ってやるじゃないですか、あれを映画でやってるんですよ、これは。男の子の飛行機ごっこですよ。

そういう物語だとね、僕は昨日ある映画監督と朝までずっと飲んでてね、そういう話をずっとしてたんですけどね(笑)。

これね、みんな言ってたのは、なんか見ると、飛行機が飛んでても、飛行機がこうなって爆破したらどうだろうって想像しながら観るんですよ。自動車が走っててもね、ここで横転してとかね、それでアニメーションするわけですよ、頭のなかで。妄想族なんですよ。オレたち妄想族っていう話ですからね、これね。エッチな妄想もしますけどね、そういう男の子妄想もするんですけどね。

 

口で言って、みんなにわからせる事じゃないんですよ。

べらべらしゃべって、自分の思想とか、政治とかぶつける人が、零戦作ったり、アニメ作ったり、映画監督なったりしないですよ。わけのわかってない人はやるんですけどね。物を作る人は、絵描きもそうですけどね、だから作品を作るんですよ。だから俺みたいにしゃべっている人はなかなか作品を作らないっていうね気もしますが(笑)、しゃべりを作品にしてるんでね。

だからこの作品で最後『ひこうき雲』が流れるんですけどね、荒井由実さんの。この歌は『ひこうき雲』ってことでつながってるっていうの一つあるんですけども、この歌詞の中にすごく重要なのが、「今はわからない ほかの人にはわからない」っていう歌詞が出てくるんですよ。まさにほかの人にはわからないんですよ。わからない人にはこの堀越二郎の気持ちはわからないだろうと。確かに心のなかには何百人もの、何千人も死んでった、自分の飛行機で死んでった人たちへの気持ちはあったでしょうね。当然あったでしょう。それがどういう気持ちかっていうのは口で言って、みんなにわからせる事じゃないんですよ。

 

芸術とか技術とかはほんと個人的なもの

赤江)かっこいい!なんだろう、すごい時間が経ってから響いてきちゃった。

町山)だからね、この歌を選んだのはすごいなって思いましたね。

赤江)そういうことか、だから宮崎監督もこの映画を見て泣けたって言ってたんですね。

町山)自分の事だからですよ。自分で自分の映画作って自分で泣いているっていうね。笑

そういうことでいいのかって言う気もしますけどね、いいんですよ。それが作品なんですよね。芸術っていうのはそういうものなんで。芸術とか技術とかはほんと個人的なものなんで、実際は。

それが実は社会と結びついていく中で起こってくる、すれ違いみたいなっていうのは時に悲劇を起こすし、あの映画わかんねえよって普通の人たちが言うとかね。家族連れで行ってもわかりゃしないわけですよ。こどもなんかこんなの飽きちゃいますよ。絶対。

 

宮崎監督の作品としては画期的な描写

でもやっぱり、宮崎監督の作品としてはものすごく一歩突き抜けたなあと思うのは、セックス描写があったってことですね。初夜で結ばれるってところをはっきりと描いてますから、直接描写はないですけど、もちろん。で、その後彼を抱きしめるシーンがあるんですけど、菜穂子さんが。その時「やってきてくれたのね」って抱きしめて、その後ぐーっと腕に力を入れて回してくっていうシーンがあって、

赤江)そうなんですよ、そこがものすごいね今までぼーっとしてたのに、ものすごい男だなみたいな感じなんですよ。

町山)そう!生々しいんでしょ。それで頬と頬が擦れ合ってみたいな感じが、あの生々しい描写っていうは日本のアニメの中で最近珍しいですよね。まあ日本のアニメにそれをやったのがあってですね、それに対する対抗でやったっていう説もあるんですけども、まあそれは置いといて、宮崎監督の作品としては画期的な描写だったと思いますね。

赤江)ということで今日は町山さんに宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』の紹介、そして解説をしていただきありがとうございました。

町山)どうもでした。

 

 

中森明夫さんの「アナと雪の女王」の解説が秀逸なので全文書き起こししてみた。

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エルサとアナっていうのは、実は一人の女性の中にある二つの人格。二つの生き方だと思ったんですよ。

中森:

実はね、僕の観たポイントって言うとなにかと言うとね、

実は、姉妹として描かれているんだけど、実は意味的にね、

姉妹の愛を描いた話しじゃないんじゃないか。これは僕のポイントです。

 

だってこの映画を観たら、幼いころ仲が良かったお姉ちゃんと妹が、

訳あって二人が隔離されるって描いています。でも、観てる側はそうじゃない。

特に女性はね。何かというと、僕はこれはね、エルサとアナっていうのは、

実は一人の女性の中にある二つの人格。二つの生き方だと思ったんですよ。

 

それはどういうことか、じゃあ雪の女王ですね。雪の女王っていうのが、

皆さんの中にあるんですよ。雪の女王っていうのはなにかっていうと、自らの能力を制御なく発揮する女性のことです。

女性っていうのは、制御するように育てられちゃっているんですよ。

例えばハイヒール履くでしょ。何でハイヒール履くんですか?走りにくいように、動きにくいように、運動能力を制御するようになっているんですよ。

スカート履くでしょ、めくれちゃうから動けないじゃないですか。

そういう風に、女性っていうのは小さい時から制御されている。

で、エルサみたいに小さい時から能力を発揮していると、

そうすると、「やめなさい。女の子らしくないから。」と言われる。

 

垣花:エルサの魔法っていうのは自分で制御できないんですよね。

 

中森:

そう。できない。小さい時から喜んで使っていたら、そうなっちゃったでしょ。だから閉じ込めちゃう。

そのようにあらゆる女性たちは、心のなかに雪の女王を閉じ込めてるんですよ。

それでアナとして生きている。アナっていうのは何かって言うと、魔法のことを忘れて、しかも可愛らしい少女ですよね。

ある意味普通の、それで王子様を待っている。ほとんどの女性たちっていうのは、普通で、愛らしく、王子様を待っているように見えながら、

心の底に、雪の女王エルサを閉じ込めているんです。これが僕の理屈。

 

観てる女性たちの雪の女王が開放されるんですよ。


『アナと雪の女王』特別映像:「Let It Go」/イディナ・メンゼル - YouTube

なんで、「Let It Go」で、みんな大感動するのかって言うと、

普通ね、映画のテーマ曲っいうのは、一番クライマックスにかかるものじゃないですか。そうすると、この映画のクライマックスは、アナがどう救済されるか、救われるかっていうシーンだと思うんですよ、最終盤の。

ところがかなり前盤、中盤の、雪の女王が追放されて、雪山の中に閉じ込められて、一人で能力を全開にするとこなんですよ。

あそこで、「ありのままで」「Let It Go」がかかって、みんな感動する。

それはね、観てる女性たちの雪の女王が開放されるんですよ。

 

あれはね、僕ら想像力のある男、垣花さんや僕みたいに、つまりねあらゆる人間は、ありのままに生きていないんですよね。だから閉じ込められているからそれを開放する。とりわけ女性たちは、あそこで開放する。

で、この歌大変ですよ。世界中の子供達が歌っているわけですから。

もうディズニーだから、これからあの歌を聞いた子どもたちは、ありのままに生きちゃいますよ。

 

お母さんの松田聖子さん。これは雪の女王ですよ。あきらかに。

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中森:

もう一つ言うと、これは吹き替え版で観ると、アナを神田沙也加さんがやっていますよね。

そうすると、雪の女王っているんですよね。雪の女王ってなにかってい言いますと、さっき言ったように制御せず、能力を発揮する。閉じ込めていない人がいるんですよ。そうするとどうなるか。

お母さんの松田聖子さん。これは雪の女王ですよ。あきらかに。

だからナイスキャスティングだと思いました。80年代にアイドルが恋愛なんかしちゃいけませんって閉じ込められている時に、

自由恋愛で、郷ひろみの王子様を袖にして、自分の欲望を全開にしたんですよ。それで猛バッシングされて、追放されたわけじゃないですか。

 

垣花:それでも松田聖子さんは聖子さんらしく生き続けたことによって、ありのままに生き続けた。そのお嬢さんとして生まれたさやかさんとしてみれば、いろいろ頑張って、ミュージカルの部隊もほんと数踏んできてますよ。実力もある。

 

中森:しかしアナでいつづけたんですよ。

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でも、じゃあ松たか子ってなにっていうとね、松たか子さんといえばですよ、幸四郎さんの娘さん。歌舞伎の名門一族のお嬢様ですよ。

歌舞伎っていうのは女性が舞台に立てないんですよ。女性として生まれたら、

「なんだ女の子か。男の子だったら歌舞伎の舞台に立てたのに」って言われて育ったんです。能力を制御されてた。それを歌舞伎ではなくて別の舞台に発揮した。彼女もまた雪の女王だったわけですよ。

 

垣花:彼女が「ありのままに」を歌う意味合いって、あそこまで力を込めて歌う意味合いって、そこにあるんですね。

 

この曲は、世の中を変えてしまうと思うんですよね。

中森:

そうなんですよ。でもねこれはね皮肉な話でね、「Let it go」ってこれだけ全世界で歌われて、これはもう21世紀が生んだスタンダードナンバーですよね。

ある意味で「マイ・ウェイ」とか「イエスタデイ」とかああいう曲になりました。歌い継がれていきます。

でもこの曲は、世の中を変えてしまうと思うんですよね。さっき言ったみたいに、自分の脳力を開放する歌だから。

しかしこれがこんだけヒットしているということは、いかにみんながありのままに生きていないかってことですよ。

 

垣花:だからあの画面の中で初めて能力を全開にしたあのシーンに、ものすごい感動、爽快感を味わうわけですね。

それを考えれば、どこまで意図してキャスティング松たか子さん、神田沙也加さんをキャスティングしたのかわかりませんけども、

ものすごいベストマッチだったわけですね。

 

中森:

そうそうそう。でもね、やはりねこういう風にうまく話してしまうんですけども、この構図っていうのは、これだけ世界でヒットするっていうのは、やはりどこの国どこの社会でもそうなんですよ。ある意味では。

 

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でもねこれ、いろんなことに言えるんですよね。小保方さん。最初は能力あるって言われたのが、リケジョならぬ魔女扱いで、理化学研究所という王子様に、裏切られて、王国を追放されて、「STAP細胞あります!」あれは「Let it go」ですよ、完全に。

 

垣花:「STAP細胞あります」っていう瞬間に、あの曲かけたら絵になりますもんね。(笑)

 

二つの人格の和解の物語。

中森:

でもね、これを僕があんまり言うとね、フェミニズムっぽいんじゃないかって言われるかもしれないんですけども、こうも言えるんですよね。

つまり、これは女性の中にある二つの人格ですよね。つまり雪の女王を閉じ込めて、アナとして生きているっていうね、この分裂を生きている。

これを最後まで、ある意味この和解の物語だとも言えますよ。つまりアナもただ王子様を待っている女の子だったのが、自分が主体的に生きなきゃって変える。

そしてエルサも自分の能力を制御できるようになるっていう話でしょ。でも制御できるようになるには、まず一回「Let it go」で解放しなければそこに行かないっていう話じゃないですか。

 

僕はディズニーがこれをやったっていうのはすごいと思いますよ。だってディズニーは、シンデレラ城が象徴的なように、シンデレラとか眠り姫が出てきて、王子様が出てきて、シャンシャンみたいなね、

だいたいそういう保守的な、いわゆる昔の童話をリメイクしたてやってたものじゃないですか。

それがこんだけ、全くガラッと変えると。

 

垣花:これからの女性は白馬の王子様を待たなくなるっていうことですか?

 

中森:待たなくなりますよ。これは。

 

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これはなんの構図にも言えるんです。例えば指原莉乃雪の女王でね、まゆゆはアナなんですよ。

でももう日本じゃ雪の女王が、AKBじゃばっとやってるじゃないですか。

僕は、僕の理屈だと、まゆゆの中にも雪の女王がいるはずなんですよ。それを開放したらもう大事ですよ。

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垣花:この「アナと雪の女王」を監督したのは女性のかたなんですね。

 

中森:そうそう。女性の監督が一緒に入ってきて、共同作業で作っている内にこうなったっていうんですね。

だいたいハリウッドの映画っていうのは、全部きめ細かく決めて。

だってあんなのおかしいんですよね。さっき言いましたとおり、途中で盛り上がりのテーマ曲が変わるのは。だからそこが、ハリウッドってすごいなっていうところですよね。

 

だからね、ぼくはね風立ちぬ零戦は、雪の女王にパッと凍らされちゃいます。あんまり言うと、宮﨑駿ファンにね、総攻撃受けるんですけどね。(笑)

 

世界を変えるっていうのはこういうものだと思いましたよね。

垣花:ただそういう意味では、物語の作り方、キャラクター設計から含めて、単なるアニメーション映画じゃなくて、大きく何か踏み出した一作なんですね。

 

中森:いやーこれは、世界を変えるっていうのはこういうものだと思いましたよね。子どもたちが観るんですよ、これ。

そうするとね、僕はね、こういうことを言ってね、「女性の応援ばっかしててね、お前なんだ」って言われるんですよね。

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そうすると、男の側でいうと、ハンス王子っていうのがいますよね。それから山男のクリストフっていうのがいるじゃないですか。

僕は王子様と同じで50超えて独身で、アイドルファンでね、こんな面白おかしいことやってね、僕は何の立場でこういっているか。雪だるまのオラフ。

面白おかしいオラフですよ。(笑)

これピエール瀧さんの声優良かったけど、僕は柳沢慎吾さんにやって欲しかったなと思っていますね。

それで面白おかしいこと言って、「僕のことギュッとしてー」って言ってね、ギュッとしたら溶けちゃうっていうね、そういうオチまで考えたわけですよ。(笑)

 

ぼくはこれね、ディズニーっていうのは、ある意味王政なきアメリカの皇室ですよ、いわば。それがこんだけ大転換したっていうのは、僕はアメリカっていう国、すごいって思った。

 

垣花:ちなみにこの分析はどっかで発表したんですか?

 

中森:これは来月、中央公論っていうので、発表するんですけどね、ただもうここで言っちゃったから。

ポイントは、アナとエルサが姉妹ではなくて、一人の女性の中にある二つの人格だった。あらゆる女性は雪の女王を閉じ込めながら、アナとして生きて、この映画は雪の女王を開放する映画だ。

これみなさん言ってくだされば、©中森明夫で。(笑)

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下記から内容を聞くことができます。

http://www.youtube.com/watch?v=gduwOV12UKs&sns=tw